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少年期 ④

 面と向かって話すと、信じてもらえないどころか以降の信用を失いかねないな、と感じて公言してこなかった体験談を、この際残してしまおうと考え、書くことにしました。少年期のお話です。

感覚過敏

 私にはいくつかの感覚過敏があります。1つは視覚過敏です。視界内で動くものがあると、その動きが激しいほど意識を引き付けられます。また、視覚による情報量が多いと処理し切れずパンクすることがあります。某ファミレスの間違い探しみたいなものはとても苦手です。また、周辺視をスポーツ技術として身に付けるのに8年ほどかかりました。周辺視がある程度できるなら、私のような軽度の視覚過敏はスポーツで有利なのですが、生憎、という感じですね。幼少期に未熟児+アレルギーから来るショック症状で体を動かす機会が少なく、身体制御能の発達が遅かったのも一因かも知れません。
 2つめは触覚過敏です。特に頸部・手首・足首の5箇所です。そこに物があると体が警戒態勢を取り、他の何かへの集中が阻害されたりリラックス状態を取れなかったりします。ですので幼少期は襟のある服が苦手でした。同様の理由で、今でも腕時計ができません。より正確には、腕時計を装着した状態で集中力を要する作業を行うと出力が20%程度まで落ちます。手袋やくるぶしソックスなども同様の理由で苦手です。ですが、ある程度の刺激ならば身体に警戒態勢を強制することができるので、大事な仕事の際はネクタイを締めたりピッチリとした靴を履いたりして、自分のコントロールに活用しています。

 この辺りまで書くと分かる方には分かるかと思いますが、私は高機能自閉症を持つ者です。大変幸いなことに症状は非常に軽微で、健常者との境界にとても近い部類です。
 苦手なのは即興性質の強い言語コミュニケーションです。言語を使わないなら得意なのですが、会話やリアルタイムチャットは苦手です。頭の中に在るものの3割くらいしか伝えられません。言語技能そのものが低いわけではないので、文通や書類作成の類は得手ですし好みに入ります。
 また、強い執着や習慣化が報告される同症ですが、私には特にありません。あっても、まず自分の生を泡沫の如き価値観で捉えている上、20歳くらいで起きた件をきっかけにそれがエスカレートしたため、いわゆる無敵の人――自身の生存を諦めたがために他の何事かに対する躊躇や恐怖心が薄れたもしくは無くなった人――と似た精神性を持っているようで、自己の安定化を二の次に回してしまうことから、執着や習慣化の欲求を無視している可能性が高いです。
 さまざまな幸運が重なり、メタ認知の発現が早かったことがきっかけで、自己を整える手短なルーティンの試行を積んだおかげで、15歳くらいには安定したコンディショニングを身に付けました。自分が力を発揮するための環境づくりを体得したのです。そしてそれは後に、教育現場に立った際、児童生徒へ『学習に集中するための準備』を伝えるのに大いに役立つことになるのでした。

 人が持って生まれたものは平等でなく、同じ人など2人といないわけで、それゆえに真に理解し合える関係など成り立ちません。だからこそ理解しようとするスタンスを持ち続け、寄り添い合える関係が理想なのだと考えています。
 また、そうして生きていくために、自分を把握した上で不得手を補うアイテムを駆使し、得手を伸ばす環境を整えることが肝要だと考えています。不得手を補うのは失敗を遠ざけるため。得手を伸ばすのは欲しいものに近付くため。自分の意思でそのバランスを取れるとなおコントロールがしやすいのかな、と思っています。

再会と

 祖父の入院の際、退屈で病院内の探検に出掛けた折、かつて別れた友人と再会することになりました。それからも1人で外出する際は、しばしば自転車で6kmほど走り、その顔を見に行きました。入院患者だった祖父がすぐに亡くなったことからも、その子が近い内にどうなるかは類推できただろうに、私はそれをしていませんでした。
 独りの時間を過ごす人が浸れるもの、すなわち物語を紡ぐことを肯定的に捉え始めたのはこのときかも知れません。いつの間にかそんな心持ちになっていた印象だったのですが、きっとそうなのでしょう。
 結局、13歳のある日に別れはやってくるのですが、その頃の私は新しい生活に飲み込まれていたのでした。

 なんやかんやで中学へ上がった訳ですが、私の学年の崩壊に手を打とうとした教育委員会の計らいで、私達の入学に合わせて敏腕教師が揃えられました。教育関係者の間では最強の学年部とか呼ばれていたらしいです。分かりやすいかは保障できませんが、例えると映画コマンドーの敵役ベネットに対しエクスペンタブルズが勢揃いした、くらいの戦力です。

 そんなエース教員大集合な学年だったこともあり、1人でも出会えたら幸運だな、という師と呼ぶべき人に何人も巡り会えました。この出会いは何にも替えがたい幸運だったと思っています。
 マッチョな校長、武道有段者で美術教師の学年主任、ノリの良い国語の(おばちゃんと呼ぶと怒る)お姉さま、レインボーブリッジを封鎖できない人、ピン子先生、ボーボボトークで盛り上がる新任美人、変Tを着てくる副校長、ヤ〇ザの若頭風数学家、霊能者、などなど。いくら何でも濃縮し過ぎでしょ。とツッコミたくなる人達でした。中でも、元ヤン体育教諭と1年次に担任してもらった男性アイドル系理科教諭は人生の指針をくれた恩師です。

 私に大きな影響を与えたのが、体育のヤン先生(仮称)と理科のケンイチ先生(仮称)だっただけで、あの3年間で接した教員は、その大半、7~8割が尊敬すべき人でした。自身の目標に向かって今なお進み、信念を持って事に当たっているのが幼いながらに感じ取れたのです。自分で理想だと思えるロールモデルが身近に存在することほど少年少女の成長を促すことはありません。そういう意味で、あの中学校はこの上ない教育現場でした。
 私が授かったのは、自分を肯定できる生き方をしろということです。私も、私にそれを授けた2人も男性ですので、実際はより鋭いものでした。

「お前それが格好良いと思ってんのか?格好悪いと思いながらやってンなら最ッ高にダセェからやめろ。格好良いと思ってやってンならいい。俺と趣味が合わねーだけだ。何も言わん。むしろその格好良さを教えてくれ。俺も自分の格好良さをもっと磨きたい」
「格好良さでも可愛さでも綺麗さでも強さでも何でもいい。自分が『良いな』って思える生き方をしろ!それが俺とぶつからない限りは、俺がお前の味方になるから」
ヤン先生はそんなことを言い、行動していました。触発された男子がコソコソするのは格好悪いからと態度の気に入らない先輩に喧嘩を売りに行った際、リングを作ってレフェリーを務めだしたこともありました。冷静に考えると決闘法違反なのですが既に時効なので記してしまいますし、そんな言動に端を発する始末書が山となり、教育委員会でも呼び出しに応じたら後は顔パスだったとか。真偽のほどは分かりませんが、そんな噂まで出る先生でした。あとは、ご自身が何事にも全力で取り組むのが格好良いと思っているようで、体育の授業や部活動の中では、生徒に混じってプレイすることもしばしばでした。
「昨日のサッカーで腿を痛めたから、今日はパフォーマンスが悪いので、いつも以上に気合でカバーします!!
と宣言して授業のサッカーに参戦して全力で走り切るアラフォーですよ。朱夏真っ盛りとはあのことです。

 ケンイチ先生は丁寧な授業と端麗な容姿で心を掴みつつ、生き様を背中で見せる人でした。毎度の授業がワクワクするって凄いことです。得手不得手からくる成績はともかく、理科嫌いの生徒は学内のアンケート調査で2%を切っていました(全国平均では40%ほど)。
 避難訓練の後だったか、ぼそりとこぼした言葉が印象的です。
「俺は嫁と息子を1番に考えてる。だから、デカい災害が起きたら教師の責任もお前らも放ってそっちへ駆け付けるかも知れない。そんなとき、お前らがちゃんと避難できるように訓練しといてくれれば、早くソッチ行けるだろ?だから、頼むよ」
教員が生徒に伝えてはまずいことの上位に来る発言ではあるのですが、私はこれで救われました。ちゃんと一線を引いて、個人を見てくれる確信を得て、信頼するようになりました。まだ言語化できない感覚なのですが、並び立ちたいと思ったのです。

 メイン恩師のエピソードは別にまとめるので、他の方々のお話を記していきます。

マッチョな校長

 私の入学時点で60歳を迎える小柄なお人でしたが、農家の子ということで休日は畑を耕す日々。それでついた筋肉と自制心はちょっとおかしく、夏場にポロシャツから覗く二の腕は首ほどの太さで血管が浮き出ていました。また、授業研究会の仕事(と問題学年の対策)に追われベスト体重から4kg太ってしまったということで、夏休みの間にサッカー部(県下でも指折りの強豪)に混じって1日10km近く走り、1ヶ月で6kg絞ったとか。60歳でそのバイタリティは何なの?
 書類仕事を済ませた後、部活中の生徒らに混ざるのは半ば趣味だったようで、野球部・サッカー部・テニス部に混ざって学校外周を何周もするのはよく見ましたし、グランドや中庭の片隅で筋トレに勤しむ者がいると参戦していました。

 私が部活仲間とグランド隅の高鉄棒で懸垂をしようとしていると、そこに混ざってきたものです。
「さあ一緒にやるぞ!」
とか言って、声出して数えながらやるわけですよ。50回くらいで部員の多くが脱落する中、おじいちゃんは80回まで行きまして、敵ったのは部員で2名だけでした。
「頑張っとるがまだまだ鍛えられるぞ!頑張れよ!」
はっはっはと笑って、他の部活に混ざっていくのでした。自分にも他人にも厳しい人です。

 あとは聞いた話ですが、小さな犬を飼っているようで、毎日朝晩、犬を抱えて散歩に出るそうです。近所に住む級友が朝の洗濯干し中に目撃するとのことでした。もうそれ、犬の散歩じゃなくて散歩に犬を連れてるだけじゃん。お犬さまは1歩も歩いてないじゃん!

 そんな校長はすぐに定年退職したのですが、ゆくゆく再会することになるのです。

学年主任

 3年間ずっと美術を教わりました。解説の引き出しが豊富で、穏やかな雰囲気と相まって安定した場を作る先生でしたが、時たま覚悟のような哀愁のような雰囲気を醸しました。
 後から知ったのですが、柔道と剣道の双方で3段を持ち、運動部の指導が苛烈で有名な方だったとのこと。指導したチームを全国大会へ導く名将だったとか。
 ヴィジュアルは、クレヨンしんちゃんに登場する園長を縦にも横にも大きくして、10歳進めた感じです。身長180cm超でガッシリ。見た目は怖いです。

 学校内での喫煙の禁止が制定されたのが私の中学時代であり、それ以降、この方含めた喫煙者は正門前でよく吸っていました。
 その頃、1校に1人いれば何とかなるレベルの敏腕教師を一箇所に集めた弊害として、地域の他の中学校が荒れだしていました。学校を脱走し、バイクを乗り回し、喧嘩に明け暮れる。そんな生徒が、いくつかの学校で少数ずつですが現れたのです。彼らは気の向くまま他の学校に乗り込んで暴力をふるい、問題になっていました。
 そんな一団が輪が母校にもやって来たのです。
 住宅街の中、交叉点から正門まで約120mの直線道路を、改造バイクにまたがり爆音で。しかし、授業が終わり次の仕事に向かう前のルーティンで喫煙する教師集団が、校門前でそれを迎えました。ガタイの良すぎるこの学年主任、ヤンキー座りで睨むハリネズミみたいに髪を逆立てたガングロ(ヤン先生)、ポパイみたいなシルエットの肉体を持つパンチパーマのオッサン、低い石垣の上であぐらをかいて笠を被りパイプをふかす大将黄猿(漫画ONEPIECEより)みたいな見た目の壮年、イケメン(ケンイチ先生)という、それと知らなければ関わっちゃいけない感満載の集団を目にし、バイク集団は備え付けたラッパを消してUターン。我が校の血の気の多い何人かが残念がったということがありました。

若頭風数学家

 私の3年次の担任でした。ポパイみたいなシルエットの肉体を持つパンチパーマ風天然髪のアラフォーでした。普段はポロシャツ姿なのですが、たまにストライプスーツに袖を通したときは完全にその道の人のヴィジュアルでした。
 秋の合唱祭の晩に心筋梗塞で倒れ、3ヶ月ほどを副担任に任せることとなった。人間がいつ死ぬかは本当に分からないものだということをクラス全員に知らしめました。副担任は可愛い系の女性教諭だったので、それなりの生徒が復帰に対し複雑な感情だったとか。

 傷病休暇からの復帰後、念願のマイホームへ引っ越したらしく、幸せそうで胸を撫で下ろしました。

 教員エピソードはこんな感じで、また時系列に沿った記述に戻っていきます。

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