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#50 治らない怪我

こんにちは。id_butterです。

人生で最高に不幸な時に恋に落ちた話 の50話目です。

最近、なんだか「寄る辺なさ」を感じている。

父と母に書いた手紙に返信はなかった。
兄が派遣されてきたし、特に何かを期待していたわけではないので、がっかりというのではないのだが、「はてこの先どうしよう」と思った。
謝って欲しいわけではないし、こちらから積極的に何か歩み寄りたいというわけでもない。

彼についても、彼からすぐに連絡が来ることもないだろう。
会いたい、しゃべりたい、そうは思うけれどわざわざ雑談のためだけに連絡をとる気分じゃない。なんでだろう。
特に、彼に頼りたい用事も相談したいこともないのにわがままを言えない。
でも、静かな愛情はわたしの中に続いている。だから、別にいいと思った。
なるようになる。

やるべきことはやった。
タスクの積み残しはない。
そして今も自分のやりたいこと、やるべきことは粛々とやっている。
いやなことはない、平和な毎日。
不満があるわけじゃない。

けど、気持ちが宙ぶらりん。
これはなんだろう。

そう思っていたら、急に涙がまた止まらなくなって、答えが降りてきた。
アイデンティティを紛失した。
わたしは「アイデンティティ」を失ったのだ。
これについて書く。

最近、やっと心から思えるようになった。

わたしはわるくない

父や母、あるいは誰かに嫌われたとして、それはそのひとたちの自由。
痴漢、あるいは不幸ななにかに遭ったとして、それは避けられない事故。
どれも、わたしの過失ではないということ。

わたしは痴漢に遭ったことを自分のせいだと思ってきた。
理性では否定してきたけれど、自分を責め続ける8歳のわたしをずっと説得しきれなかった。
「汚くなってしまったわたし」はもう母の求めるいい子ではなく、母の平穏で完璧な日常を、理想の家族像を壊す加害者であり、被害者ではなかった。
傷つく資格すらない、そうわたしは考えたらしい。

父と母に手紙を出して、変わったこと。
それは、やっとちゃんと泣けるようになったということだった。
今まで傷つくことすらできていなかった。
30年以上過ぎて、はじめてわたしは傷ついて、そんな自分を認めた。

ひとの思考とはなんて複雑なものだろう。
8歳の自分の考えを42歳になってやっと理解する。
やっと、自分が自分の中に戻ってくる。
今まで、その人は自分の中から外に飛んでしまっていた。
外から「あの子かわいそう。」と同情して泣いていた。
自分の中にいることすらできなくなっていた。

今はじめて、傍観者ではなく、被害者として、わたしとしてわたしは泣いている。
わたしは、傷ついている。
いたい、というかずっと、ほんとうはいたかった。

今まで癒しとか必要ないと思ってた。
そもそも、自分が傷ついている自覚もないのに癒せるはずもなかった。

そしてひとしきり泣いて、自分が空っぽになったことに気づいた。

さむい。
ひとりだ。
ちいさいわたし。
なにもない。
どうしよう、こわい。

わたしは、今まで「きたないわたし」というアイデンティティーの土台の上にいろいろなものを積み上げてきてしまった。
「きたないわたし」にふさわしいもの。
きたなさを払拭するために、きたなさを打ち消せるように、キレイなものだけを選んだ。それが基準だった。
誰から何を言われようと、何をされようと、キレイなものを返そうとした。
もう「きたない」と言われないために。

だけど違った。
わたしはきたなくなかった。
「じゃあどうすれば?」
急に真っ白になった土台。周りには何もない。

「きれいであることを目指さなくていい」
じゃあ何を目指せばいい?

わたしはゼロにリセットされ、さらに方向性すらも失っている。

「きたないわたし」は当たり前すぎて、もはやアイデンティティになってしまっていた。
「きたない」というかさぶたが剥がれ、35年ぶりにわたしはわたしに会う。

わたしは、わたしらしさを失くしてしまった。

「何をしてもいい」
そういわれたわたしは、途方に暮れている。
周りは真っ白い闇だった。
足元には枷もなく、カラダも軽い。
もう誰も何もわたしを引きとめない。
だけど。

自由ってこわい。

今までは、進むことに必死だった。
でも今はどこが前なのすらわからない。
このまま歩いていいのか、それもわたしが決めなくてはいけない。

怪我が治らなかった方が、楽だったかもしれない

剥がれ落ちたかさぶたを見ながら思う。

そういえば、こういうことってあるなと思う。
例えば会社で子育て中だと時短勤務できる。代わりにお給料が上がりにくくなったり出世からは外れるけど、見えない存在でいると楽だったりする。
子どもの頃、風邪引くと学校を休めてみんなにちょっと優しくされて、一日布団で寝ていられる。でも外は寒いから、公園に遊びに行くことはできない。

自由と孤独はセットだ。
あるいは、自由と責任はセットだ。
そう思えないうちは怪我は治らない。
そういう風にできているのだ。

だけど、いつまでも治らない怪我に甘んじて何かから逃げ続ける、あのどうしようもない時間も、わたしには必要だった。

最近のことを思い返す。

note書いている瞬間が楽しい
夜の散歩は心地いい
YouTubeをダラダラ流しながら、不意に涙が流れるのもわりと気持ちいい
少し痩せた体にいい匂いのするクリームを丁寧に塗る、いい気分
習いたてのヒーリングをするときに見えるイメージも気に入ってる

彼を愛したい。
子どもと毎日笑いたい。
誰かを愛している自分を明日も続けたい。
自分を愛したい。

自分を信じる。
やっと信じられるようになってきた。
あるかないのかよくわからないくらいの小さな小さなアイデンティティー。
自分の中を探しても見つからない、そう思っていたけど、あると信じ続ける。それしかできそうもない。

真っ白な闇に怯えていたさっきより、呼吸が少し楽になる。

だいじょうぶでしょ、と彼なら絶対に言ってくれる。
だからわたしはだいじょうぶだ。




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