見出し画像

「悲劇の豪腕」清水秀雄氏の故郷、鳥取県米子市を訪れて

行きの夜行バスは緊張と高揚感、そして若干の恐怖が入り雑った不思議な感情で、余り睡眠が取れなかったのを覚えている。一人での遠出が初めてな上、当時まだ大学生。私が全く踏み入れた事の無い未知の世界へ、夜行バスは暗闇の中を進んでいた。
令和4年9月1日。晩夏とは言えぬ猛暑が続く関東を離れ、私は初めて鳥取県米子市に降り立った。目的は、清水秀雄氏の人生を調査する事。人の事を知りたければ、その人が育った環境、つまり「リアル」に触れ、理解する事が重要だと思ったからだ。
清水秀雄。私のXを知る方には、すっかりお馴染みだろう。鳥取県米子市で育ち、米子中(現米子東高校)、明治大学を経て1940年にプロ野球の世界へ。主に中日で活躍し、通算100勝を達成。戦地で貫通銃創を喰らい、持ち前の速球を失ってしまった事で「悲劇の豪腕」と紹介される事も多い。引退後は米子市朝日町で「飲食店五百枝」を経営していた。五百枝とは勿論、店の名前である。しかしそれとは別に、清水秀雄氏と関わりの深い「五百枝さん」という人物が存在した事も、この時既に分かっていた。だが、二人の関係はまだ不明であった。
今回は初めて米子市を訪問した際の出来事をここに記載したい。長い旅路になるが、是非お付き合い願いたい。

米子市に到着したのは昼頃。夜行バスで鳥取駅到着後、JR山陰本線に揺られ、米子駅に

杉本真吾氏の言葉

「何をもってこの調査はゴールなの?目的は?」
米子市に降り立った翌日の9月2日。私は皆生タクシー株式会社の社長室にいた。皆生タクシー株式会社、社長は杉本真吾氏。ご存じの方も多いだろう。「元米子東高校野球部監督」の肩書でNHK甲子園解説を勤め、「予言者」と呼ばれる事もある、理論派解説者。普段はタクシー会社、そして旅館の社長も勤めている。今回、米子東高校野球部コーチK氏のご協力のもと、お話しさせて貰う機会を頂いた。タクシー会社も経営されていて、長く米子市におられる杉本氏であれば、土地にも詳しいであろう。清水秀雄氏についても何か知る事が出来るのではないかと考えていた。しかし、杉本氏のこの「ゴールは?」の問い掛けに、私は上手く答える事が出来なかった。
ゴールなど考えていなかった。ただただ清水秀雄氏の事が知りたいと思い米子市を訪れていた。
清水秀雄氏と私は、詳しくは差し控えるが親戚の関係に当たる。清水秀雄氏は昭和39年に45歳で亡くなられており、それは私が産まれる30年以上前の事なので、当然私と直接の関わりは無い。だが、時折話題になる人間性、そして経歴にいくつか謎めいた点がある事で、自然と清水秀雄氏に興味が湧いた。繰り返しになるが、米子市を訪れたのも彼の生涯を知る為だ。
確かにゴールは何だろうか。謎が解決出来ればゴールなのだろうか。それは少し違う気がした。杉本氏の言葉は、この時の私の心に深く刺さった。
「清水先輩は引退後は米子東高校(旧米子中)とは縁を切っていた可能性があります。私も色々調べてみました。土井垣(武。阪神他で活躍)先輩や井上(親一郎。国鉄初代主将)先輩は練習を見に来ていたと聞いた事がありますが、清水先輩はありません。また、引退後に経営されていた『飲食店五百枝』も、清水先輩が主人になる前から存在していた筈です」
杉本氏は、清水秀雄氏の事を「先輩」と呼んでいる。二人は出身校が一緒なので当然だが、羨ましい気持ちと同時に、清水秀雄氏の「生(せい)」を少し感じる事が出来た瞬間だったと思う。自身以外から、清水秀雄氏の名前を直接聞けたのは、これが初めてであった。
Xで頂いた新聞記事の切り抜きでは「五百枝の主人におさまり」とあった。杉本氏にもその記事を見て頂いた。清水秀雄氏は恐らくその「五百枝さん」から店を継いだのだろう。そしてその「飲食店五百枝」は地図の記載上、平成元年頃まで続いている。清水秀雄氏が亡くなった後も誰かが継いでいた可能性が高かった。その頃まで店が続いていたのなら、地元で知ってる人も少なくない筈だ。杉本氏との対談を終えた後、直ぐに周囲に聞き込みを開始した。だが、いくらまわっても、店を知っている人には辿り着く事が出来なかった。

清水秀雄氏の引退後の記事
清水秀雄氏が経営していた頃の「五百枝」の広告

「飲食店五百枝」の末路

「よくここが分かったね、お兄さん。初見の人は迷子になる事が多いんだよ」
入店した途端、明るく話しかけてくれたのは女将。18時から予約をして、時間通りに入店した。ここは「飲食店田むら」。何を隠そう、清水秀雄氏が経営していた「飲食店五百枝」の跡地で現在経営されている店である。
周りに他のお客はいない。お陰でカウンターで食事を頂きながら、清水秀雄氏やお店の事、そして「五百枝さん」の事も色々と聞く事が出来た。

飲食店田むらで頂いたお通し

「五百枝さん、懐かしいなあ」
私が頼んだ味噌カツを揚げながら、飲食店「田むら」の大将、田村収氏は女将と目を見合わせ、しみじみと微笑んだ。その表情を見て私も安堵する。静かな人であったが、気さくな大将であった。飲食店田むらが経営を始めたのは昭和48年。清水秀雄氏が死去したのは昭和39年なので、直接の関わりはない。

飲食店田むらで頂いた味噌カツ

「五百枝さんの旦那さん(清水秀雄氏)がプロ野球選手だったと知ったのは、五百枝さんと知り合って随分と経ってからでした。五百枝さんと清水秀雄さんは婚姻関係です。五百枝さんの連れ子だけど、子供も3人いた。秀雄さんはその3人を凄く溺愛していたみたいでね。現役引退後はよく釣りに連れて行ったりしていたみたいですよ」
釣り、か。清水秀雄氏にとって、釣りとは何だったのだろうか。
昭和25年末、清水秀雄氏は中日を退団し、故郷の米子市に戻った。球界、そして社会から忘れられた者となった清水秀雄氏は、ただただ時間を潰すために、近所の川や宍道湖に釣糸を垂らした。自分は惨めな敗北者だ。そう思われているに違いないと、清水秀雄氏は後に雑誌でこの時の思いを語っている。この翌年に清水秀雄氏は大洋で現役復帰する。
敗北者が時間潰しで始めた釣りは、愛する家族と共に過ごすための、かけがえのないものとなっていたのである。現役時代、球界の問題児として常に悪い噂が本人に纏わり続けた。そんな清水秀雄氏の知られざる純粋な一面を知り、胸が温かくなった。
「『飲食店五百枝』は清水秀雄さんが亡くなった後、息子さんが継ぎました。ですが、その息子さんはお店の名前や形態も全て変えて、バーを始めたんです。でも失敗して倒産してしまいました。その後は、清水さんの身内ではない人が何代も代わって『飲食店五百枝』の場所で様々なお店を経営していました。最後は誰が何をしていたのかも分かりません。地図更新されていなかったんだと思います」

かつて五百枝があった場所。人通りは殆ど無い。
現在は、赤矢印手前の赤い建物も取り壊されている

清水秀雄氏と五百枝さんが築き上げた「飲食店五百枝」の歴史は、ご子息の手によって幕を閉じたのだという。五百枝さんが清水秀雄氏と年齢が近いと考えると、ご子息の方はまだご存命の可能性が高い。
「3人の息子さんの誰かは、まだ確か米子にいると思います。詳しくは分かりませんが」
ご子息の方がまだ米子市にいる。その情報を得られた事は、私にとって大きかった。
料理を頂いて、会計を済ませる。店を出る際、女将が見送ってくれた。
「ごめんねお兄ちゃん。何の役にも立てなくて」
大将と女将が温厚な方で助かった。かなりプライベートな内容なので、不快に思われるか心配であったから。

人生を旅して

飲食店田むらの戸を開けて外に出れば、辺りはすっかり暗くなっていた。夜風が身体をさらりとすり抜ける。
清水秀雄氏の知られざる一面も知る事が出来た。引退後、米子東高校に顔を出さなかった理由も、何となく分かった気がする。家族と幸せな時間を過ごす事が出来れば、それで満足だったのではないか。
この辺りは街灯が極端に少ない。暗がりの細い道を静かに歩く。かつて清水秀雄氏も、この道を数え切れない程歩いた筈だ。しばらくすると、川が見えた。この川で、息子さん達と釣りを楽しんでいたのだろうか。清水秀雄氏の見ていた景色も、私が見ているものと同じだろうか。そんな事を考えていた。この時の私は、清水秀雄氏の人生を旅しているような、不思議な感覚の中にいた。帰りの夜行バスの出発地へ、気づけばあっという間に着いていた。
清水秀雄氏の事を調べるために米子市に来た。本人だけでなく地域の事も知る事が出来た。
「何をもってこの調査はゴールなの?目的は?」
杉本氏の言葉は今でも大切に心にしまっている。清水秀雄氏がいなければ、私は生涯一度も鳥取に行く事など無かっただろう。杉本氏やK氏、出会うべき人とも出会えていなかっただろう。
私の目的は定まった。清水秀雄氏に直接挨拶したい。墓地を特定して、墓参りをさせて貰う。そして感謝したいのだ。
私をここまで連れてきてくれて、ありがとうと。

清水秀雄氏が大洋時代に在住していた場所。
島根県松江市


この記事が参加している募集

野球が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?