なぜ弾くのか、自分でもわからないのに

私はアマチュアのヴァイオリン弾きです。
マガジンまで立ち上げておきながら、
音楽の話題に手をつけなかった、というか、つけられなかったのは、
簡単に言って、私が“楽器を弾くこと”について拗らせているからなのだと思います。

まずここを自覚して言語化しないと、この先は書けないと思いました。
そこを回避してnote.をやっていくこともできなくはないけれど、
それだと何かをごまかしたようなものしか書けないだろうし、そんなものに意味はないと思うようになりました。
このnote.という「場」は書いても大丈夫だ、という感触を得たのも、あるかもしれません。
よろしければ、しばしお付き合いください。


私がヴァイオリンを始めたのは4歳の時でした。
よくわかりもしないのに「やりたい」と自分が言ったのは覚えていますが、
日々のレッスンは楽しいことばかりじゃなかった、というかむしろ苦しいこと理不尽なことばかりでした。
教育熱心な母は鬼コーチで、毎日のように喧嘩をしましたし、弾けるようになるまで何度でも繰り返し練習させられました。先生も厳しかった。
私自身を含め、誰も私をプロのヴァイオリニストにしようなんて、思っていなかったのに。


だから今も、ヴァイオリンを弾くことは趣味より義務とか修行に近いし、音楽をピュアに楽しいと思ってやっている人を羨ましく眩しく思います。

例えば大学オケで初めてヴァイオリンを持ったような人たち。つまり大人になった自分の意思で音楽を人生の一部にすることを選択した人たち。
基礎練習もそこそこにチャイコフスキーの5番あたりで舞台に乗っちゃって「大変だったけど楽しかったー!!」って、ン十年たっても笑顔で話せる人たち。
そのまっすぐさと明るさと音楽への愛に、私は絶対に敵わない。なのにそう思っている人たちから「べにちゃん、ヴァイオリン上手に弾けていいな」って言われる居心地の悪さといったらないわけです。
「自分の子供には、小さい頃から楽器を習わせてあげたい」とか言うのを聞くと、
「いや、それは確かに上手になるかもしれないけど、その分、あなたほど音楽を楽しめないかもよ?」と思ったりするのです。


物心ついた時にはもう、本を読むように楽譜が読めて、
補助輪なしで自転車に乗れるようになる前にヴァイオリンが弾けた私にとって
ヴァイオリンが弾けることは当たり前のことで、
それ自体が自己肯定感につながることはないのだけれど、
大人になってからそれを手に入れた人は、自分をアイデンティファイするときに胸を張って「ヴァイオリンが弾ける」と言うのです。

まあ、はっきり言ってびっくりすることもあります。その程度で「弾ける」って言うなんて勇気あるね、とか意地悪な気持ちになることもあります。
それでも、その誇らしげな様子と圧倒的な自信の前に、何も言えることはありません。
たぶんこれは嫉妬なんだな、と思うのです。


それなのに。
私はまだヴァイオリンを弾くことを手放せないのです。
愛憎が渾然一体となって、好きなのか嫌いなのか、弾きたいのか弾きたくないのか、
何のために弾くのか、もうわからないのに、
それは確かに私の一部なのです。


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