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「モノ」は思いに染まる~『からくりからくさ』『りかさん』

何となく「物」じゃなくて「モノ」で。
今の私は「モノ」に対しての執着があまりにもなさすぎて、心許ないというか、ちょっとマズイことのようにさえ感じることがあります。
生きるために、日常をこなしていくために必要とするモノを除いてしまうと、手放すのが惜しいモノが何もないという感覚がちょっと恐い。
恐いというか、困っているというか…
何か思い入れのある「モノ」があれば、この世界から逃げ出したくなる感覚に捕らわれることもなくなるんじゃないかと思うんです。
錨(いかり)があるから、船が揺れ動く海を漂流しないで済むように。
……ん?
あ、一つありました!
天然石のブレスレット…いや、違うなあ。
服を着るみたいな感覚で外出時にだけ必要としてて、家の中では全く見向きもしてないし。
大切に扱ってはいますが、やっぱり執着はないです。
他には…全然思いつかないです。

この文章が引っ掛かりました。

モノは心の延長というのは、うまれてしばらくのこどもの日常であり、老年になるとモノと心の区別がふたたび失われて、こどもの心に似た安らかな心境にかえってゆく。

 (解説 鶴見俊輔)

染色を学ぶ蓉子は、亡き祖母の家で同世代の女子学生3人と暮らしている。
織物、鍼灸…皆、それぞれに手仕事を学んでいる。
そして、もう一人、子どもの頃に祖母からもらった人形の『りかさん』と。
物語の結末は、りかさんを巡るドラマの結末であり、4人の若い女性たちのドラマの一つの区切りにもなっています。

子どもの頃の蓉子の物語。

ー ようこちゃん、つらいね。

りかちゃんは同情する。そして、祈る。

すると、目には見えないけれど、部屋に漂っていた「悲しい切ない」粒つぶが、急に小さくなった。「ちょっとメランコリック」ぐらいになった。

久しぶりに思い出したことがありました。
小学校の高学年になるまで一緒に寝ていた子犬のぬいぐるみのことです。
フェルトの赤い舌をちょこっと出した水色の毛並みの子犬は、私のリクエストに応えた叔母からの入学祝いでした。
ペロと名付けたその子は、生涯で一番うれしかった贈り物、出会いだったように思います。
当時の私にとっての一番の宝物、友達でした。
やがて、捨てることを意識せざるを得なくなるときがやってきます。
もう一緒には寝ないことにして、でも、1、2年…もしかしたら2、3年?(中学生になってました)、時折その子を手に取ってはいじっていました。
撫でて眺めたり、だけではなくて、何故か…何というかもう虐待みたいな !?
取れかけた舌を引っこ抜いたり、ほつれた部分から中身をほじくり出してみたり…何で?
もちろん、修繕のつもりで縫ったりもしましたが、破壊もしてたと思います。
破壊してる…、と、自分でもわかってて、妙に淡々とした気分だったことを覚えています。
今、考えると、それは手放すことが前提にあったからで、私はたぶん、私なりの「魂抜き」をしていたのかもしれません。

それにしても、なんでそんなに乱暴なやり方だったのか。
破壊でなければならなかったのか。
『からくりからくさ』のりかさんを巡る人間ドラマとその結末に、その答えがありました。
当時の私には、自分の思いの染み込んだペロを上手に手放すことはできなかったのです。
時間を掛けて、ぐちゃぐちゃなやり方でしかできなかった。
私にしかわからない。
本当にぐちゃぐちゃに心乱される小学生時代でしたから。
最後にペロを手放したときのことは全く記憶にありません。
あの出会いのとき、大好きな叔母が笑顔で私を見守ってくれていて、ペロの水色の毛並みがキラキラしていて、この上なく幸せだったことはいつでも思い出すことができます。

「老年になるとモノと心の区別がふたたび失われて、こどもの心に似た安らかな心境にかえってゆく」まで、私が到達しているはずがありません。
それは、あくまで「こどもの心に似た…」であって、同じものではないのでしょうが、まだ老年とまではいかない私にはその心境もよくわかりません。
中途半端な今の状態…で、終らないように、もうちょっと頑張って生き抜いてみるしかありません。
(ぐちゃぐちゃに心乱されている日々の中…錨はどこに~?)


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