見出し画像

鏡を見続ける私。

先週は半日の空き時間を使って2回目のコジコジ万博に行くことができた。

売り切れていたTシャツやノート類が再入荷したとの情報をTwitterでキャッチできたので,急遽朝イチで行くことに決めた。無事入手できて前回とは違った満足感があった。

経済学における法則に抗うために,満足の指標を変えることで頭がいっぱいだ。


それはさておき,仕事の合間でこういった趣味を楽しんでいると,ふとキーワードのようなものが浮かんでくること多い。

それは,人生において今考えるべきキーワードとしてなるべくキャッチするようにしている(メモの「魔力」に頼るかはケースバイケースである)。

少し前は「重合」,またある時は「魂を遊ばせる」など,なんだかよくわからないワードが浮かぶ。

なんかおもしろでもあるので,それについて一旦は考えてみるようにしている。浮かんでくるときは心が解放されたときなのかもしれない。


コジコジ万博で「魂を遊ばせている」時は,「ミラーニューロン」という言葉が浮かんだ。

脳科学の専門家ではないので,その言葉は聞いたことがある程度だった。

どこかで誰かが「別の人を見たときに脳が鏡のように反応し,その別の人と同じようなことをし始める」というようなことを言っていたような気がする。

毎回このnoteは定義等を参照しなさすぎなので,気休めではあるがWikipediaを貼っておく。

教育の仕事に携わっていると,これはとても納得がいく。

少し前にも「学ぶは真似ぶ」というようなことを書いた。業界にいると,

「やっぱり素直な子は上達が早いよね」

と聞くことが多いのだが,「素直」と言っているのはそのまま「真似がうまい」ということだろう。

こういうことを考えると,(成績を前提にした)教育における学ぶ側のスキルは,「どのくらい真似がうまいか」という点が大きいように思えてくる。

テストでは基本的に,程度の差はあれ「再現」が求められるからだ。

教える側もこれを前提にするので,言葉だけではなく「やって見せる」ということはとても大切である。そのために板書をしたり,今であればタブレットで画像や動画を見せたりする。

メラビアンの法則ではないが,真似るならば「目が良い」ことは学習において大事な要素だと思わされる。

日ごろから,学びは脳の活動だけではなく,身体活動だと思っていたが,また一つつながったような気がする。

おっと忘れないように…今度はWikipediaではなく…(論文でないので勘弁してください。私は学者ではありません。コジコジはコジコジです。)


いわゆる「わかりやすい説明」というものがある。最近に限らずわかりやすい説明をしてくれるととても助かる。

「わかりやすい説明」と聞くと,(1)論理的にわかりやすい説明と,(2)言葉からイメージしやすい説明とがあると思う。

「論理的に明快だが,全然イメージがわかずにわかりにくい説明」というのもたくさんあるから,この2つは分けてみた。(この文章は論理もなく,イメージもわきにくいかもしれない)

「言葉からイメージに起こしやすい説明」は,特に初学者に好まれると思う。先ほどの視覚と学習の関係でいえば,「イメージできる」ということは「目に見える」ということだ。

目の前で見ているわけではないが,頭の中で見ている。一体ヒトの目はどこにあるのだろうか。

「百聞は一見に如かず」ではないが,視覚情報はわかりやすいので,理解しやすい(気になる)。

そう考えると,他人に何かを伝えようと思ったら,できるだけイメージしやすいように工夫することが大切だ。例えを使ってみたり,文を短く切ってみたり,いろんな工夫がある。

結論としては,よくある「わかりやすい説明」本に書いてある内容の劣化版のようになった。


いわゆるスピリチュアルなどがわかりにくい理由も少しわかってくる。

とにかく言葉から視覚イメージを作りにくい。だからハートや光などの一種の「象徴」が用いられることになる。それを例えば「善いこと」や「一体」などということにしている。

論理的に明快であるわけでもない。「ポジティブでいましょう。ポジティブになります」はもはや論理でも何でもない(実際に一度だけ言っている人に会った)。

とはいえ,そういった世界がないわけではないと思う。

単純にわかりにくく,エビデンスも豊富にあるわけではない。基本的に目に見えないし(本当は見えているのだが),怪しさも伴う。友人もなくすかもしれない。学習環境として入口は最悪だ。

そこに不安があれば,飛び込まない世界なのは当たり前だと思う。


科学にしろスピリチュアルにしろ,仕事にしろ遊びにしろ,ミラーニューロンのことを基礎に置くと,「何に意識を置くか」が重要だと思えてくる。

「人は自分が見たいものしか見えない」ということはずいぶん前から言われているが,これはそれを言っているのだと思う。

あるいは「その人を知りたければ,その人の周りの人を見ろ」というのも同じである。

ある人が使う言葉一つとってもそうである。(だんだんスピっぽくなってきたが,誘おうとしているわけではないです)

おそらく人は24時間365日,五感を使って学習している。周囲の環境が大事なのはそういったところから来ているのだと思う。


そう考えると,昔の「背中を見て学ばせる」やり方や丁稚奉公などはとても理にかなった人の育て方だ。

翻って現代の環境を見渡せば,知識をわかりやすい形で映像にしたり,自分の生活を切り貼りして,動画にして配って見せている。それを多くの人が参考にし,学習している。

過去に比べて大きく広がった世界で,多様なものを見聞きできる時代となった。多様性の時代を迎えたのも無関係ではないと思う。

ここから先はメタバースの世界に入っていくが,人の学習と,それにより構築される意識の結果として,どのような宇宙ができるのか楽しみでもある。


追記
昨日この記事を途中まで書いて,去年から楽しみにしていたアリス=紗良・オットのピアノを聴きに出かけた。音楽や演出はもちろん素晴らしかったが,テーマが"Echoes of Life"で,またこの記事の内容とつながりがあった。

ミラーニューロンによる学習周りの話として書き始めたが,次は「エコー(共鳴)」がおもしろそうだ。

(写真はアジサイ。これも友人に送ってもらったもの。毎回よくこんな素敵な写真を撮れるものだと思う。)

この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?