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ライ麦畑でつかまえて

はじめてこの本のことを知ったのは
村上春樹のエッセイだったと思う。

彼がイチオシにしている本の一冊だったので
読んでみることにした。

ちょうど読書の幅を広げたいと考えていた時期だった。
それまでは推理小説だとか
冒険小説みたいなオチのある話ばかり読んでいた。
それが面白いと思っていた。

もちろん面白い。

しかしそれ以上の面白さになかなか出会えないでいた。

いわゆる純文学というものに手を出してみたが
サッパリわからなかった。

20年も前
高校の現代文授業で
森鴎外の「舞姫」を読んだが
馬鹿馬鹿しくなってしまったことがある。

あの禿げたオッサンの
私小説だということで
キモいと思った。
(だってオッサン(あくまで写真から)が若い子を騙くらかして言い訳がましく自分に浸ってる文章じゃん)

メデタく現代文の成績も急降下した。

村上春樹も全然わからなかった。
頑張って最後まで読んだけど
高揚感がなかった。

食事でいえば
いままでは
ファストフードやカップラーメンを楽しんでいただけなのだ、
ということはわかっていた。
そういうジャンクだって美味しいわけだ。

味が濃いから。

濃い味はもっと濃い味を求める。

やがて濃い味に慣れてしまって
繊細な味覚が失われていく。

村上春樹を読んだ後
村上龍や大江健三郎や
いくつかの純文学を読んだ。

やっぱり素晴らしさがわからなかった。

文学の入り口に立つことができたのは
カップラーメンに戻った時だった。

村上春樹を諦めて
好きだった冒険小説を読み返してみた。
再び高揚感に浸ろうとしたのだ。
ところが
この前まで確かにそこにあった面白さが
綺麗さっぱり、すっかりと
消えてしまっていた。

今まで読んでいたのは
味の濃い料理だったのだ。

文章の緻密さ
文体の個性
全てが雑で
塩辛いだけのスープにムセてしまうように
もう飲み込むことはできなくなっていた。

薄味の要所要所で旨味を効かせた料理で
完全にリセットされた私は
文学を楽しめる舌を取り戻したのだ。


世界には私の身体や私の内面を変えてしまう本があった。

そして一度変わってしまった私は
もう昔には戻れなくなっていた。
あの雑な文章を読むことは余程活字に飢えているとき以外にはあり得ない。

『ライ麦畑でつかまえて』

文学に対するイメージが
私なりに構築される以前、
一度目に読んだ時には
甘ったれた思春期の男の子の
なんの事件にもならない物語にしかみえなかった。

私自身の留学中
アメリカで
子供が生まれた後、
ライ麦畑でつかまえての舞台である
ニューヨークの
セントラルパークで
その本を読む二度目の機会があった。

不思議だった。
心の底から
主人公の気持ちに共感してしまう私がいたのだ。

思い出すと涙ぐむくらい
彼の気持ちに近づくことができた。

無垢な子供達がライ麦畑を飛び出して危ないところに出ていかないように見守っていたい。

もう
この書籍を面白くないとは思えなくなってしまった。

私の内面が変えられてしまった。

書いているうちに
また読みたくなってしまったので
本棚から探し出そうと思う。

LOVE

(でも舞姫はごめんだよ。)

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