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こすってこすって150年。日本人はドストエフスキーが大好き。〜摘読日記_21

先日、半分まで読んだ、と投稿した、亀山郁夫著「『罪と罰』ノート」を読み終えました。

うちの本棚には、「罪と罰」関連の本が他にも何冊か。

「罪と罰」と、関連本いろいろ。。


「無人島に本を持っていくなら何を?」というお題が昔ありましたが、「罪と罰」は私の中でかなり上位人気かも。

無人島に持っていくなら、「罪と罰」と、競馬新聞がいいかな。(笑)


150年も前の異国の小説なのに、不思議ですね。

特に日本には、ファンが多いそうです。

何度も読み返す読者も多いし、翻訳のバージョンからして、誰々版と色々合って。

日本での人気について、井桁貞義先生の「ドストエフスキイと日本文化」から少し引きます。

 日本はなぜそのようにドストエフスキイを繰り返し翻訳、出版し、読んできたのか? 一九七七年、コペンハーゲンでの第三回国際ドストエフスキイ・シンポジウムで著者が初めて日本でのドストエフスキイの読まれ方を紹介して以後、世界に広まった情報を受けて、外国の研究者から幾度もこのように尋ねられてきた。
 (中略)日本の無数の読者と、表現者たちは、自己の問題として、また社会の問題として、問題を展開するにあたって、ドストエフスキイとの対話を繰り返してきた。その長い道程が、この世界的な謎を形成することになったのだ。

井桁貞義「ドストエフスキイと日本文化」序章より引用。


外国の研究者も、「日本人はなんでそんなによく読むの?」と不思議なようです。


小説家の加賀乙彦先生が、有名な「老婆殺し」のシーンの訳され方について、こんな風に仰っています。

 この殺人のシーンは有名です。いろいろな小説家や批評家が引用していますが、米川正夫訳と江川卓訳をくらべてみると、江川訳のほうがいいですね。きちんと、その峰打ちのところを書いていますが、米川訳はあいまいになっています。

「小説家が読むドストエフスキー」より引用。


ラスコーリニコフが凶器の斧を振り下ろした時、”峰打ち”だったのか、つまり、刃が自分に向いていたのか、老婆の方に向いていたのか、どちらだったのかで、小説の解釈が違ってくる、自分の方に向かっていたのだとしたら、”自分自身をも殺したい気持ち”があったのでは、と読むことも可能、ということを指摘されています。

翻訳版を読み比べて楽しむ、かなりマニアックな楽しみ方ですね。

江川卓先生の「謎とき『罪と罰』」は、私はまだ拾い読みしているところなのですが、主人公の名付けにドストエフスキーが仕込んだ意味や、登場人物の造形に込められた意味、それは深読みし過ぎでは・・というぐらいに、しゃぶり尽くしています。

冒頭で、このように書いています。

 ドストエフスキーの『罪と罰』は、実にさまざまな読み方のできる小説である。どの年齢で、どのように読んでも、それなりのおもしろさと感銘を味わうことができる。この小説が世界文学の傑作中の傑作として、これほどに長い生命力と人気を保っている秘密も、まずはこのあたりに求められるべきだろう。

「謎とき『罪と罰』」はじめにーより引用。


そういえば、先日映画館で観て記事にもした、劇場版「仮面ライダーリバイス」のケイン・コスギ演じる仮面ライダーダイモンのキャラクター造形にも、「罪と罰」のラスコーリニコフの”非凡人理論”の影響を感じたのでした。

「大きな目的のためには多少の犠牲は仕方ない。」、という台詞に。

これも、深読みかもしれませんが。。



・・以上、今日は完全に非競馬系の記事を書いてしまいました。

ちなみに、競馬系では、最近こちらの本を読み進めています。

清水一行著「匿名商社」
1996年発行(単行本は1974年)

商社が隠し事業として「ノミや潰し」をやる、というお話です。
読んだことのない雰囲気の小説です。
感想記事はまた改めて・・。

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