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日本海が怖くなったきっかけの話

 

 大学院の2年目の時、福井県の敦賀に行ったことがある。母のくれた青春18きっぷが1枚余っていたので、せっかくだからと、日帰りで旅行を思い立ったのだ。行き先が敦賀だったのは、当時自宅のあった京都から日帰りでギリギリ旅行可能な距離が敦賀だったのと、何となく「敦賀」(つるが)という雅(みやび)な響きに惹かれたからである。そんなわけで、京都から1時間ほど電車に揺られ、敦賀駅に着いた。

 敦賀といえば原発の街である。福井県の沿岸は、俗に「原発銀座」と呼ばれるほど原子力発電所の数が多い。そのせいか、原発マネーが沢山降ってくるので、商店街のアーケードなど街の施設が立派であるのだ。しかし、立派であるが人が全くいない。行けども行けども、すれ違う人とも全く出会わない。何やら中性子爆弾で人間だけが姿を消してしまったかのような、そんな奇妙な景色が続いているのだった。

敦賀の商店街。だだっ広いばかりのアーケードに明るいメロディが虚しく響く。

 夕方になると、そろそろ帰りの電車が気になりだす。私は、せっかく原発の街に来たのだから、原発を一目見て帰ろうと思った。原発前にはバスで行かなければならない。だが、今からの時刻では帰りの最終バスを考えると、15分程しか滞在時間がなかったが、意を決してバスに乗ることにした。何となく物足りない気がしていたのだった。そのようにして、私は段々と人気(ひとけ)のなくなる原発への道をバスで行くのであった。

 バスの車窓から。

 家がみえる。団地がみえる。橋がみえる。山になる。両側に山と海ばかりが見えてきて、そして何も面白いものがなくなる。それからようやく原発前到着。バス停の前はすぐに発電所であった。ゴチャゴチャとした機械やらクレーン?(よくおぼえていない)やらが見える。離れたところには受付所があった。その他には何もない、殺風景な景色である。滞在時間は15分ほどしかないが、見るものも無さそうだ。取り敢えず写真だけ撮ろうとスマホを身構えるが、ふと発電所前に立てられていた看板に気がつく。

「ここでは写真撮影を禁止しております。もし違反行為があった場合、治安機関に通報いたします。」

なるほど。原子力発電所は重要な施設であるから、そりゃー写真撮影など出来ないわけだ。ならばせめてこの看板だけで我慢してやろう。私がそう思い、スマホで看板をパシャリ…と数枚撮ったその瞬間である。

 受付所と私のいる場所とは100mほど離れている。その受付所から突然人が出てきたかと思うと、ダッダッダッダッダッダッ!!!!と地面を蹴飛ばす音が数度聞こえて、男がこちらに飛び跳ねるように走ってくるのが見えた。この時、私は24の年齢だったか。人間が走る様というものは何度も見てきたはずであったが、男のそれは中高の50m走といった類のものではなく、何か"""死にものぐるい"""といった感じであった…。
 「あ…こっちに来る…」と思うのもつかの間、瞬く間に私の前に来た男は、ゼェ…ゼェ…と息を荒らげた。そして、「すみません…今撮った写真…消してもらってもいいですか…?」と有無を言わせない迫真の表情で言った。
 先程の看板の注意書き。そして目の前のこの男。予想されることとしては、スマホで写真を撮ったという行為が、「相当マズイこと」だったというのが容易に想像できた。
 「す、すみません…コレとコレですか…?」すっかりビビりきってしまった私は、まるで自ら首を差し出すように、スマホの画面を男に向けると、丁寧に解説しながら削除した。「看板の写真をですか…?看板しか映ってないですよ…」せめてもの証をと懇願するように言うも、「「いいえ!!看板の写真もです!!!!」と男は断言した。ふと、男の後ろにある受付所に目をやると、坊主頭の男がもう1人、怪訝な顔をしながらこちらを見ていた。その時、「生きてるうちが花なのよ。死んだらそれまでよ党宣言」という映画を思い出した。確か福井の原発の映画である。作中には口封じのために、ヤクザが原発企業の手先として使われていたのだった。そういえば、看板の注意書きには「治安機関に通報します」と書いてあった。治安機関とは何だろう。警察ではなく治安機関と表記するには何か理由があるのだろうか。あらぬ想像が頭を駆け巡る。全ての写真を男の言うとおりに削除した。

 帰りのバスまで残り10分…。男は私を解放してくれたが、たった一人でここまでやって来た、という点について、かなり怪しんだようであった。私もいたたまれない気持ちになり、先程受付所の奥からこちらを見ていた別の男の顔を思い出すと、途端に恐ろしくなった。原発前のバス停で待つことも出来るが、ここからは発電所と近すぎる…。例え10分間といえど、あの男たちと向かいになるのは御免だった。次のバス停まで歩けない距離ではないので、私は気晴らしがてらトボトボと沿岸を歩くことにした。季節は5月であったが、まだ肌寒い。陽が沈みつつあった。夕暮れの日本海は何とも言えぬ美しさを見せていた。元々が辺鄙な場所であるからか、物音一つ聞こやしない。私は心細くなった。

波が銀色に輝いている。どこか不気味な風情である。

歩いた道。遠くに発電所が見える。

 北陸とはこんなに寂しいところなのか…。先ほどの体験の衝撃が冷めやらぬのもあったが、とにかく海が不気味であった。今にも何か怪獣が飛び出してきても不思議ではないだろう。そうこうしているうちに、発電所での体験がまたぐるぐると頭の中を駆け巡る。もしかしたら、彼らは私を追ってきやしないだろうか…。おぞましい被害妄想がとめどなく広がった。とにかく怖かったのだった。
 途中で、妙な看板とすれ違った。
「密航 密輸 不審船 見つけたら110番 118番」
 不審船とは北朝鮮の工作船のことだろうか。日本海側では拉致被害が多いと聞くので不思議ではない。

北朝鮮の工作船を警戒したものだろう。少しギョっとする。

 先ほどの受付所の男の警戒ぶりからすると、もしかしたら私は北朝鮮のスパイを疑われたのだろうか?そういえば、受付から走ってきた彼からは「徒歩で来たんですか?」と、この田舎道で妙なことを聞いてきていた。徒歩なわけがないので、当然「バスで来ました」と伝えたが、それらを警戒したのであったなら合点がいく。想像が、一大学院生の生活を越えたあたりまで膨らみ、際限が無くなりそうであったが、無事に帰りのバスに乗車することで日常に戻ることが出来た。がらんとした車内には運転手以外、私しかいなかった。敦賀駅に着くと、特急に乗ってすぐさま京都に帰った。

 この体験は、今では笑い話のひとつとして、私の持ちネタになっている。ただ原発での恐怖体験とは別に、日本海の怖さというものも刻みつけられることになり、また途中で見かけた不審船の看板から拉致問題についても考えることが多くなった。この化け物でも出てきそうな寂しい日本海の景色で、北朝鮮の工作船と出くわしてはたまったものではないだろう。拉致被害者の恐怖たるや、相当なものだったはずである。先日、父方の祖母と久々に話した。父がまだ小さかった頃、祖母たち一家は福井県に旅行に行ったことがあるのだが、その時海岸でひっくり返った木製のボートを取り囲んだ、10人程の男たちと遭遇したことがあるのだという。人気のない海岸であり、また男たちが冬の季節にそぐわない薄着の服装をしていたため、何となしに奇妙なものを感じたという。不気味な予感のした祖母は、幼い子どもを急い連れ戻し、祖父の路駐している自動車まで戻ったのだった。男たちはその間中、じーっとこちらを見ていたらしい。
 それから数十年が経ち、北朝鮮の拉致事件が判明すると、祖母は今更になってそのエピソードを思い出し、ゾッとしたようだ。

拉致被害者で北朝鮮から帰還した蓮池薫さんは、海岸で見知らぬ男から「タバコの火を貸してください」と話しかけられたのをキッカケに運命が大きく変わってしまった。

 そんなわけで、私は日本海と聞くと、何かしらゾッとするような怖いイメージを抱いてしまうのだ。それは祖母の遭遇したという男たちのエピソードしかり、自分の原発での思い出しかり、そして原発からの帰りにみたおどろおどろしい海の景色しかりである。ある意味、日本海側の街というものに、非常に多様なイメージを持つことが出来たのであるが、また旅行したいかと言われたらやや微妙である。今度は海は避けて、金沢の香林坊にでも行くべきだろうか。

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