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この1枚 #9 『Bigger than both of us』 ホール&オーツ(1976)

ダリル・ホールが来日しました。今回はフィラデルフィア出身で同郷のトッド・ラングレンと共に来日し、Daryl's Houseを再現しました。多くのホール&オーツのヒット曲が聴かれましたが、ヒットを連発した80年代の人気は凄まじいものでした。しかし、70年代にこそ彼らの真髄があり、今回はその時代の代表作『Bigger than both of us』を紹介します。


ダリル・ホール with トッド・ラングレン 来日公演

ダリル・ホール(Daryl Hall)来日公演初日、2度目のアンコールに応えて登場して、最後に演奏したのが最大のヒット曲Private Eyesです。
現在のアメリカツアーでは、You Make My Dreamsが大ラスで演奏されていて、Private Eyesは演奏されていませんが、Private Eyesが大好きな日本人へのサービスで特別に演奏されました。(アメリカでは映画で使われたYou Make My Dreamsが再生回数がトップのようです)

Private Eyesは1981年に全米チャート1位を獲得、アルバム「Private Eyes」も5位となります。特にPrivate Eyesは、当時ディスコ人気の真っ只中でヘビーローテーションされ、手拍子部分ではホール全体が拍手が鳴り響いたのを思い出します。1981年は他にLet’s Groove(Earth, Wind & Fire)やPhysical(Olivia Newton-John)などがディスコの人気チューンでした。
アルバム「Private Eyes」は初のプラチナヒットとなり、I Can't Go for That (No Can Do)も連続して1位となりと2曲のNo. 1ヒットを連発し、彼らの人気は頂点を迎えたのです。

フィラデルフィアとダリル・ホール

ダリルは1946年生まれの今年77歳。(ジョン・オーツは1948年)
頭角を表したのが三十路過ぎと言う遅咲きのため、実際の年齢よりは若く感じます。
サングラスをして髪もフサフサの彼は遠目に見れば、まだ60代にしか見えず、若々しさを維持しています。
デビッド・ボウイが1947年生まれなので、彼よりも一歳上とは驚きです。
そして、同行したトッド・ラングレン(Todd  Rundgren)は75歳。
トッドはホール&オーツの3作目「War Babies」(1974)をプロデュースして以来の仲ですが、トッドよりも年長なのがまた意外。
2人はソウルの本場、フィラデルフィア生まれと同郷です。
ダリルは下積み時代は故郷のフィラデルフィアシグマスタジオでキーボード奏者として働いており、デルフォニックスの録音にも参加しています。
当日のステージではダリルとトッドの共演も実現し、デルフォニックスのナンバーも披露するなど、フィリーソウル愛に溢れたライブでした。

『Bigger than both of us』

1981年のPrivate Eyes発売時、ダリルは既に35歳。
ハンサムガイの彼は若々しく、20代のように初々しく見えました。

そしてその5年前の1976年にリリースされた『Bigger than both of us』に収録されたRich Girlで、初の全米1位を成し遂げるのですが、その時点で既に30歳とかなり苦労人なのです。
同年発売のイーグルスNew Kid in Townは「ホール&オーツに捧げたもの」だそうですが、2歳下のグレン・フライにNew Kidと言われてしまいダリルはこそばゆい気持ちになったでしょう。
確かにその前年から彼らはNYからLAに制作拠点を移して成功を収め始めており、イーグルスから見ると俺らのシマにやって来た新参者となるのでしょう。何れにしても苦労人のダリルが見え隠れするエピソードです。

この『Bigger than both of us』は邦題は「ロックン・ソウル」、Daryl Hall & JohnOates(ホール&オーツ)による5 枚目のアルバムになります。
1976年9月にRCAレコードからリリースされ、アルバムチャートは過去の最高13位を記録し、シングルのRich Girlは77年に初の全米1位となるのです。

リッツの箱がやけに目立つジャケット

1972年にデビューした彼らは苦節6年でやっとその座を掴みました。
名手アリフ・マーディンのプロデュースによる73年発売の2作目『Abandoned Luncheonette』は今ではAOR/ブルーアイドソウルの名盤と称えられていますが、セールスは芳しいものにはならず苦渋をなめます。
因みに、この作品への参加したメンバーが凄くて、Richard TeeHugh McCrackenGordonEdwardsBernardPurdieRalph MacDonaldなど錚々たる強者達。
シングルShe's Goneが何とか60位まで浮上したのが救いでした。
この頃、アメリカ進出を果たしたデヴィッドボウイの前座を務めていたこともあるそうで、その後ボウイがフィラデルフィア録音をすることを考えると因縁深くもあります。
そして、76年のSara Smileが4位のスマッシュヒットとなることで、She's Goneが再度チャートインし7位まで浮上し、一躍注目される存在になります。そして同年に本作をリリースし、翌年77年にシングルカットしたRich Girlが初の全米1位となり下積み時代にピリオドを打つのです。

Back Together Again(A-1)

Bigger than both of us』のオープニングは、Back Together Again
珍しくジョン・オーツの作品でリードボーカルも彼。シングルカットされて28位までアップするなど、ジョンの代表作と言えます。

トム・スコットのサックスで華麗に幕開けするこの曲、ソウル的なカッコ良さではベスト3に入る程の快作だと思います。
「65年を思い出そう」とフランキー・ヴァリ&フォー・シーズンズの再結成についてジョンが書いたものです。
LAのディスコファンクバンドRhythm Heritageに所属したベースのScott EdwardsとドラムのEd Greeneが強烈なファンクリズムを叩き出します。
このRhythm Heritage、実はスタッフ的なセッションミュージシャン集団で、他には Michael OmartianBen BenayVictor FeldmanJay Graydonなどの強者が所属していました。
ダリルとジョンはNY在住でしたが、前作よりLA録音となり本作もLA録音で現地のミュージシャンが参加しています。

Rich Girl(A-2)

2曲目が全米1位のダリル作のRich Girlと強力なナンバーが続きます。

本作にはScott Edwards & Ed Greene以外に、Leland Sklar(bass)、Jim Gordon(drums)と言うリズムセクションも参加していますが、アルバムには曲ごとのクレジットはありません。
Leland SklarのYou TubeチャンネルでRich Girlを紹介する映像があったので、この曲では彼がベースで、ドラムはJim Gordonだと思われます。
2人以外のクレジットは以下のようになります。
Daryl Hall – lead vocals, backing vocals, keyboard
John Oates – backing vocals, rhythm guitar
Christopher Bond – keyboards
Gary Coleman – tambourine
keyboardsを演奏しているChristopher Bondはプロデューサーでもあり、本作の前後2作を含めて3作をプロデュースしています。

この時ダリル30歳、ジョン28歳と遅咲きの2人

Crazy Eyes(A-3)

オープニングに続き早くもジョン・オーツの曲は2曲目。この頃の彼らはダリルとジョンがほぼ対等で、デュオグループらしさが保たれていました。
ジョンらしくアコースティックギターでフォークっぽく始まりますが、徐々にファンキーなベースが支配し、ジョンの黒っぽい渋目のボーカルを生かしたソウルチューンに変貌します。
このベースの音色だと、演奏はRhythm Heritageのリズムコンビが担当していると思われます。
因みに、Scott Edwardsボズ・スキャッグスDown Two Then Leftでもベースを弾いており、Hard Timesで聴かれるゴリゴリとしたベース音を本作でも全開にしています。

80年代にメガヒットを繰り出す頃には、ホール&オーツはダリルのプロジェクトのようになり、すっかりジョンの影が薄くなりますが、本作ではジョンがフューチャーされ、ジョンの曲ではダリルのコーラスワークも冴え渡ります。

Do What You Want, Be What You Are(A-4)

さらに、A面は名曲が続きます。Do What You Want, Be What You Areは2人の共作ですが、ダリルの熱唱が光ります。
ここでも強烈なベースを聴かせるのはEdwardsと思われ、ダークでブルージーな曲調を強調しています。
「やりたいことをやればいい、自分を貫いて」と言う意味のタイトルは、ダリルの生き方そのものと思われます。

Room to Breathe(B-2)

ブルーアイドソウル路線をひた走り、名曲揃いのA面から一転してB面は実験的な曲調が続き面食らいます。
Room to Breatheは一転してハードロック路線。
実は彼らはブルーアイドソウルと言うレッテルを貼られるのに反発しており、これが次作の布石となります。
ボズ・スキャッグスの「Silk Degrees」が出たのが同年の76年。
その数年前からソウル路線に取り組んでいた2人にとっては、二番煎じにしか感じず、その枠組みから脱却しようと模索していたのです。

You'll Never Learn(B-3)

続くYou'll Never Learnもジョンがボーカルを担当し、本作では3曲目となります。最も摩訶不思議なダークでサイケな曲調で、A面のソウルナンバー達は仮初の姿だったと気づきます。ラテンリズムも入れた、トーキングヘッズにも通じるようなアバンギャルド路線。本音ではこれが彼らの当時の志向だったのかも。ポップ・ソウル路線はプロデューサーのChristopher Bondの意向で、本人等は既にソウル的な方向には飽きていたようです。

Falling(B-4)

最後を飾るスローナンバーはダリルの曲Falling
FallingのベースはLeland Sklar、従ってドラムはJim Gordonとなります。
Falling、I'm down on the ground」(=地面に落ちていく)と、少し不吉な未来を予測させる歌詞とサウンドで本作は終わりを告げます。

『Sacred Songs』

ダリル・ホールは長い下積みを経て初めての成功を収めたのにも関わらず、限界を感じるようになり、1977年にはヒット曲を作ることよりも、自分の人生観を表現することに傾倒し始めます。
そして初のソロアルバム『Sacred Songs』を制作しますが、RCAより発売を拒否されて、結局1980年になるまでお蔵入りするのです。

ロバート・フリップがプロデュース

この作品はキングクリムゾンロバート・フリップと言う意外な人物がプロデュースを手掛けています。
ダリルのYou Tubeチャンネル「Daryl’s House」で最近、ダリルとフリップが共演した貴重な映像があります。

低迷期から全盛期へ

そして同じ1977年にはロック路線に方向転換した「Beauty on a Back Street」をリリースしますが、ヒット曲は生まれず最高位は30位に止まり、更なる低迷期に入ります。
ダリル本人が最高作と言うWait for meも18位にしか達しません。
彼らが再浮上するのは3年後の1980年。
セルフプロデュースした「Voices」から2度目のNo. 1ヒットKiss on my listが生まれます。

そして翌年1981年にアルバム「Private Eyes」をリリース。
人力リズムを排除し、チープなデジタルビートによるクールなソウルチューンI Can't Go for That (No Can Do)はチャート1位となります。同時に白人グループとして初のR&Bチャート1位に輝いたのです。
Hip Hopのサンプリングネタとして人気が高く、De La SoulのSay No Goなどに使用されています。

ブルーアイドソウルと言うレッテル貼りから一度は脱却しつつも、肌の色を乗り越えて、黒人からもリスペクトされる存在となるのです。
マイケル・ジャクソンは「Billie Jeanはあなた達のI can't go for thatにヒントを得て作った」とダリル・ホールLive Aidの会場で語ったそうです。

80年代が彼らの商業的な最盛期であることは疑いの余地はありません。その後も快進撃は続き、82年のManeater、84年のOut of TouchとNo. 1獲得は6曲とヒット製造機となり、最も成功したデュオとなるのです。

ですが、個人的な音の好みで言うなら、70年代のソウル期に軍配が上がります。
She's GoneSara SmileRich Girlと70年代の名曲を集めたライブ映像を貼って、今回は締めとします。

日本盤解説は東郷かおる子氏。
クイーン推しの彼女はホール&オーツも強烈にプッシュしてた。

投稿前に以下のような報道が入ってきました。
詳細は分かりませんが、最近まで仲良くツアーをしていたと思っていたので、残念なことです。


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