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生ける神

私の信仰生活は、神社でおはらいを受けた時にステップアップしたと言えるかもしれない。・・昨日、そんな事を考えていました。

高校3年生でクリスチャンになった私は、聖書への熱心さというよりも自分の未熟さゆえに、両親を心配させるようなことを言ってしまい、「悪霊」(イエス)を追い出してもらう必要があるとのことで、有無を言わさず神社へ連れて行かれたのです。

その神社では「万物を造られた神」が祭神さいじんまつられている神)であると書かれた看板を見て、妙な親近感を覚えつつ、でも不安と恐れを抱きながら、中へ入っていきました。

そこに神主がやってきて、お祓いの前に、高圧的な口調で「神なんていないんだから、信じるのをやめなさい!」と言うのです。

(え、嘘でしょ? だって、あの看板に・・。この人は、いったい何の力で祈祷しようというのだろう・・?)

すべての神主がそうではないと思いますが、この人にとって神道はただの宗教であり、仕事であって、信仰ではなかったようです。

それから除霊が始まりましたが、私の心は平安に満たされ、神主が何かを唱えている間、ずっと心の中で「イエスさま、感謝します。あなたは悪霊などではないし、この人にはあなたを追い出す力もありません」と、賛美と祈りを捧げていました。

この神主からすれば、神々はすでに死んだ状態だったのかもしれませんが、結果として、「私の神は生きている」という信仰がますます深まりました。

聖書には、「生ける神」や「主は生きておられる」という表現が何度も繰り返し出てきます。

これは、当時広く崇拝されていたさまざまな偶像が、「息(命)がない」と呼ばれていたのと対照的な呼び方です。

もろもろの国民の偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。それは口があっても語ることができない。目があっても見ることができない。耳があっても聞くことができない。またその口には息がない。
(詩篇135:15-17)

私にとって、信仰とは、生ける神との信頼関係です。信頼できる父との近しい関係なのです。

わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、 「わたしは彼らの間に住み、 かつ出入りをするであろう。 そして、わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となるであろう。」
(2コリント6:16)
彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう。
(ローマ9:26)

生ける神だからこそ、祈りを叶えることができるし、これまで何度も、普通ならあり得ない形で私の祈りに答えてくださいました。

願ったとおりに叶わないこともあるけれど、天の父は何かもっといい考えをお持ちなのだろうと信頼することができます。

父親や友人を心から信頼しているなら、相手の考え方など構わずに自分の言う通りにやるよう要求することはないし、願い事をそのまま聞いてくれないからといって縁を切ったりはしませんよね。

また、生ける神だからこそ、一日を通して、語り合い、交わることができます。

間違いなく神は生きておられます。私は今朝、神と話したのですから。
(ビリー・グラハム)

小さな水滴、小さな親切』という記事に書いたように、神は私たちがすべきことを教えてくださることもあれば、聖句を用いて慰めや導きをくださることもあります。

神は生ける神だからこそ、私たちが辛い時、すぐそばに寄り添ってくださいます。

神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。
(詩篇46:1)

生ける神だからこそ、常に働いておられ、奇跡的な何かを起こすこともできます。

たとえば、最近の記事『与えることでもたらされる幸せ』にあるように、不思議な方法で必要な収入を与えてくださるといったことです。

わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである。
(イエス、ヨハネ5:17)

このような神の働きを「偶然」と呼ぶ人もいます。

でも、私の人生を振り返ってみれば、そのような「偶然」が数え切れないほど起きており、他人がそれをなんと呼ぼうと、それは生ける神にしか成し得ないことだとわかります。

そして、それがまた、私の信仰・・生ける神への信頼を強めてくれ、私の心を喜びで満たすのです。

わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、 わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。
(詩篇84:2)


【来週(9月19日)のバイブルメッセージはお休みします。】

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