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四大文明概念を批判する

 時間がなくなかなか進まないながら「メソポタミアとインダスのあいだ」という本を読んでいます。タイトルの通り、メソポタミアとインダス文明の領域の間で両文明間の交易に携わった、イラン高原とペルシャ湾岸の「文明」について述べた本です。
 かつては「四大文明」という言葉が広く使われていたのは、ある程度の年齢以上の方ならご存知でしょう。古代中国に複数の文明が存在したことが明らかになった後も、「黄河文明」を「中国文明」と言い換えて「四大文明」概念は生き残りましたし、比較的新しい本でもアンデス文明とメソアメリカ文明を加えて「六大文明」と呼んでいたりします。
 それでも時代とともに少しずつ四大文明概念は弱くなってはいきました。漫画「MASTERキートン」で「四大文明なんて嘘っぱちです」というセリフが登場したのはどの位前だったでしょうか。
 湾岸の文明を専門とする著者の方は、湾岸地域の文化を独立した文明とすることを「文明のインフレ」と批判されたそうです。確かにイラン高原とペルシャ湾岸の2地域を時代で区切って4つの文明を設定するのはちょっとやりすぎかもしれません。ですがここで重要なのは「四大文明」というかなり古い概念にこだわるあまり、その他の地域を過小評価してしまうことかと思います。既に良く知られている文明を特別視し、それ以外のものを「文明」ではなく「文化」と呼んだりするのには、学術的には意味があるのかもしれませんが、アカデミズムの外側にいる歴史好きの素人に過ぎない僕などは、「文明」と「文化」の違いもはっきりとさせないまま「文化」の方を「大したことないんだな」と切り捨ててしまいかねないので注意しなくてはならないです。

 大事なのはメソポタミア、古代エジプト、インダスの各文明の周辺も後進地域ではなかったこと。それどころかイラン高原の「文明」はメソポタミアで誕生した「都市文明」というコンセプトをインダス文明の地域に伝えた先進地域であった可能性があること。そして文明はそれぞれ孤立しているわけではなくメソポタミアを中心にレヴァント地域を経てエジプトに、アナトリアを経てエーゲ海に、イラン高原とペルシャ湾を経てインダス文明の地域に、と交易を通じて影響を与え合っており更にエーゲ海とエジプトは海路で結ばれているし、イラン高原とペルシャ湾岸の交流もあるということ。
 大規模な遺跡の発見される都市文明ばかりにフォーカスして、その違いにばかり目を向けていると前3千年紀にはすでにこれほどまでに広く、複数の文明を含む一つの「世界」が広がっていたことを見落としかねません。

 我が国は中国文明の辺縁という性格と、独自の文化を持つ独立した文化圏という二つの性質を持ちます。メソポタミア文明の影響を受けながら独立した文化を築いた多くの地域は我が国と同様に、メソポタミア文明の辺縁と独立した文化圏・文明圏という性格を兼ね備えていると言えるでしょう。それはメソポタミア文明と並び立つように見えるエジプト文明も、欧米の人々が自らの源流と信じるギリシャ文明も同じだと思えます。

 一方中国に目を転じると、かつては黄河流域に文明が起こり、それが周辺に伝播していったと考えられていたものが、黄河、長江、遼河にそれぞれ文明が起こり、相互に影響しながら発展したことがわかってきています。長江上流域では更に独自に文明が起こっていた可能性もあります。

 四大文明という言葉の問題点は、これら文明間の相互作用や影響、文明の周辺で独自の文化文明を形成した人々を見えなくしてしまう事ではないでしょうか。黄河、インダス、メソポタミア、エジプトの各文明をあたかも四つの孤立峰のように扱うのではなく、人類の活動の大きな舞台としての複数の文明の連なりを意識した時、自分はようやく何か一つの入り口に立ったような気がしました。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。本業のサイトもご覧いただければ幸いです。

 

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