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人間関係で悩む人はやさしい人だけど/231027


今のわたしは超絶テキトーだな、と思うわけですいやまじすまん

昔はわたしもそっち側だったのに、いつぞやからか(2年前だけど)わたしの方が「心優しい人の敵」になっちゃったなーとか思う瞬間もあります

わたしも昔はやさしい人だったんだなとか思い返して、でもやっぱ2度と戻りたくないし、その「やさしさ」て、本当にやさしいけれど「本当にやさしさだけかなぁ?」と思ったりもするようになりました

たぶん「やさしさ」を少し履き違えていたんだと思いますが、それが人間関係で悩む人すべてがそうではないと思います

こんな感じでマインドセット変えたよぉーの一例を残すのでなにかきっかけになれたら何よりです


誤解する人に一々反応するのめんどくさい


むかしは「え、なんでそんなこと言うの」みたいに一々傷ついていた気がします

今は「はいはい、きみはそう思うのねそう思いたいならそれでええやん、でもわたしは違うからな」と思います。思いますが言いません。

人の思考や価値観を変えるは不可能と思った方がいいし、どこかおこがましいです。自分の思考を変える(わたしの場合は認める)のだって大変だったんだから、他人の思考なんか変えられません。
で、そこまで価値観が違うならお互いに不和を起こしやすいので関わるのを減らすしかないと思うわけです。

昔は「それでも話してくれるから」「あの時こうしてくれたし」みたいな、べつに許す必要の無い人まで許して結局傷ついていたんだと思います。


気にしぃは変わらん


要は感情処理の方法を覚えたということです

たとえば心無い発言を受けたとする、先日あったんですよねそれ。昔は「モヤモヤする!すごくやだけど友達をそんなふうに思ったらいけないし」とか思って煮えたぎって発酵させて、それが無限に溜まっていました=病む
わたしでもそんな時代がありました(懐

今はもう親友に罵詈雑言コースですよええ

もうハッキリ「わたしはこーゆーところに傷ついてきたってわかった!無理!むりむり!」と「わたしは傷ついたんだよ!」をアピールしました。

そして「でもね今は親友がこうして聞いてくれてるし、わたしのことをわかってるのはその人より親友だし、何よりも「むり!」て言える人がいて、それを共感してもらえて、自分も言えることがしあわせ」と言いました。

で、親友も価値観が似ているのでちゃんとフォローしてくれて、その場でその話を終えられました。

どんなに「そんな些細なことで」て言ったとしても無理なもんは無理だろ、の精神です。
これが「自分の感情に責任を持つ」ということと思います。これができない、、、できなかった!

なので過去のわたしのやさしさは、天然のやさしさもあったけれど、どこか「自分の感情に責任を持ちたくなかったんだろな」と思うのです。

そうすることで相手にちゃんと向き合って「ここが傷ついた」とか言うの、怖いし、と。

無理なものは無理!は、もしかして中々言えないのかもですね。でもそれって、やさしさなのかな?は思います。自分の中に負として残っているなら、いたずらにただ煮込んで発酵させてるだけなんじゃ?とか。


誤解しない人には一生懸命


「あのぉー、好きな色とかってあります?」

「なに、俺たちお見合いでもしてんの?付き合いたてなの?」と恋人にもどった元恋人がピンクのモンスター飲みながら笑って言ってましたが、誤解しない人と会話するのはストレスがたぶん1/1000くらい少ないです。

なのでこの時も「そーいや好きな色聞いたことないな」思いつきのみでてきとーなことを言って「この人なら誤解しないで「保留はただ、好きな色を知りたい」と理解できるだろうな」が既にあるからなんだろなと思いました。

これが恋人や親友、幼馴染以外だと「んーこの人はこう捉えるタイプだから…」と何回か濾過したりしないといけないわけで、まぁそれって単純にめんどくさい。
説明が多いのもやだし、でも今は少しそれがいやではないです。

多分恋人や親友、幼馴染みたいに説明ゼロでも伝わる人がいるという安心があり、親友はしょーじきまだ説明必要ですけど少ないのでありがたいです。

ちなみに恋人の好きな色は黒でした

一緒一緒、でもきみいっつも白着てるけどな



安全基地があればOK


ホームがあるというか

だから誤解されても「また誤解してはりますやーん」となり、たいていのことは自分だけで処理できるようになりました。処理できないのは恋人&親友行き案件。けっこー怒っちゃう

傷つくことを言われるということ自体も減ってしまって、今思い返しても近々ではそれが思い出せないほどです。

ホーム=理解してくれているひとたち、がいるから、傷つくという感覚も鈍感になっています。ホームは全肯定というわけでもないんですが、必ず「まぁ保留がそう思うのもわからんでもないよ」みたいな情緒的な寄り添いがあるから大丈夫なんだと思うんです。

そう思うと、やさしさを最優先してきたわたしは、ちゃんと本音を話してちゃんと叱咤されたり、それをわたしも受け取ったり、ちゃんと認めてもらえてきたのかな?と思うようになりました。



嘘ではないけど本当ではない関係


結局かつてのわたしのやさしさって日和見だよね、と今は思うんです

傷ついてるくせにその人の前では大丈夫なフリしたり、
でも陰で「あーゆー人いてさー」とか、
ふつーに人としてあんま魅力なかったなー、と。

だけどそれがみんなそうとも思って無いです。でもその部分もあるんだろな、もあります。その方がラクなんで。

本音を言えてそれを全肯定だけではなく、ちゃんと分解分析して自分も納得できたり「はーそこはわたしが間違ってたね」と言える関係が、できれば複数あることが大切なんだとわかりました。



難易度は高い


人間関係て人生で大きな割合を占めるので、大きな問題になりがちです

これがかなり減ったわたしは割と勝ち確(なんの?)なんだろなと思います。

それは仕事でも言えて、わたしがその会社や団体で価値が無いみたいに判断されても「いやー、きみたち、わかってないよね〜笑」で終われるようになるからです。

会社なんて山ほどあるし、わたしはキャリアのためならここまではするけどそれ以上はこの会社にはしない

を、個人個人でも当てはめて考えていますっていうか考えるほどでもなく体感がすぐ現れます。思考早いからかな。

でもこの人、この会社のためなら少々無駄でも無理してもする、その価値があるから

と思えば無駄なことも自分ルール以上のこともします。会社だと元会社、人だと幼馴染、親友、恋人、親、それぞれの適用度が変わります。

それってたぶんちゃんと愛情が返ってきてるからまたやろう、大切にしよう、と思えるんだと思います。


行動主義


「アルバート坊やの恐怖実験」でお馴染み、マッドサイエンティスト、ワトソン=行動主義 好き

行動こそすべて(敢えて「しない」も含めて

そんなわけで、実は親友はうちのアイドル銀太が亡くなる前に、銀太の食欲が無いと聞いてわざわざ高いフードを集めて送ってくれました。
そこらへんじゃ手に入らないやつ。

親友はとにかく銀太が好きで「保留は良いから銀太の写真見せろよ」ていつも言っていて、その気持ちを忙しい中、行動で、形で表現してくれました。

しかも銀太はめちゃくちゃ美味しく食べてくれて、動画にも残して、それがちゃんと食べた最期になりました。

恋人は、わたしが今一番やりたいことを理解してくれて、こっそり人伝手に聞いたりして見学の準備をしてくれたり、その場で電話してくれたりしました。

いつも全部応える、とも違うんですよね

ここぞ、というポイントを押さえられるのは、やはり価値観が似ているからだと思うんです。だからそもそも価値観に乖離がありすぎる関係は一緒にいることにお互いのかなりの努力が必要となりますし、そこまでして一緒にいる理由って意外と無いです。



バランスと責任


親友がよく「最初の違和感は最終的な不和の原因になるからそこは正直に認めろ」と言います

これ、真理です。
だけど「この人と仲良くしてみたいな」とかで「見ないこと」にもしがちで、それも人なんだろな、と思います。

怒る、物申す、これらは自分の感情に責任を伴います。正直めんどくさいからいやです。

だけどそのめんどくさいは回避してはいけなくて、更に言うとその伝え方も必要となりますし、相手の価値観や理解力に依存したりもします。

そこまでする価値があるのか、まずはそれを見極めるのも大切だなと思います。すぐに決断するものでもないですし、すべては臨機応変だとわかりました。

ただひとつ、今言えるのは、そのめんどくさいを実行したりして、人間関係の悩みがほぼ無いわたしからすると、何よりも自分のために必要なことということのみです。

気にしいでもいい、傷つきやすくてもいい、だけどそれをしっかり自分の責任のもと、実行するのは簡単ではないと思います。失うものもありますし、大変なこともあります。

やさしさとは日和見ではなく、あらゆる責任を取れることと思います

一筋縄ではいきませんが、その先には生きやすさが待っている、これは言えます

そして結局、これを実行できるには自己肯定感が必要となるのですが、それはまたべつの話

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