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水辺から見る江戸~東京の変遷 オバケ東京クルーズ

2023年11月に参加した、SHIBAURA HOUSE主催のイベント。水上版のブラタモリで、好奇心をそそられるイベントでした。

ツアーは、早稲田大学で建築・都市史研究をされている先生と、「語り」を用いた芸術アートをされているお二人のコラボ!
江戸が始まる1600年代から幕末、明治に東京になり、戦前、戦後を経て現代の東京になるまでの歴史を建築とアートの視点から見ていくもの。

前半は、日の出桟橋から船で出発し、東京港湾、隅田川、日本橋川まで行き、ぐるっとお台場の外を回って戻ってくる1時間半のコース。都市史の解説と、ナラティブな朗読のセットが心地よい!
後半は、このお二人によるダイアログ(対話)でしたー。


東京の水辺からもう一つの東京を想像する、クルーズツアー

ツアーの報告は、SHIBAURA HOUSEの公式ページに出されています。
前半のクルーズツアーはこちら

後半のダイアログパートはこちら


特に、史実として面白かった部分を紹介します。
※自分のメモで裏取りしてないので間違いがあったらすみません。。

江戸時代の東京(江戸)


江戸幕府になる前の徳川家は、一介の武将の一人。
戦国時代は、他の大名に負けないため都市づくりが必要だった。当時は神田川や隅田川を天然の城壁として使っていた時代である。

江戸時代になり、徳川家が日本を天下統一すると、戦は終結。河川を防護壁として使う必要性がなくなる

江戸の大火で焼失したのをきっかけに、物流網としての河川を整備していく。

以下、「古代で遊ぼ」さんのページに、1643年頃の江戸の市街図があったので引用します。

霊岸島 (れいがんじま)の埋立

当時、日比谷地域を埋立する段階。
1600年頃から 霊岸島 (れいがんじま)の埋立が始まっていく。
霊岸島 (れいがんじま)とは、「日本橋川」・「亀島川」・ 「隅田川」に囲まれた「島」で、今の新川(しんかわ)のところ。

以下はグーグルマップで検索したスクリーンショットだ。赤線で囲われているところが霊岸島(新川)だ。

Googlemapのスクショ

※より気になる方は、こちらのページも参考になる。

この頃から、日本橋エリアが町人の街として発展していく。
新川のところにあるのが石川島。

南高橋(南側に亀島川水門が隣接する)

河川を使って全国から船でモノが届く。問屋街ができていく。船大工も集まる。
現在のIHI(旧社名:石川島播磨重工業)の母体である石川島造船所の発祥の場所である。

こちらIHIの創業の沿革。1853年に、ペリー来航で欧米列強への対抗に迫られた幕府が作った造船会社と記載がある。

この辺りは幕末には勝海舟の海軍学校もあったとか。
船は南高橋の水門あたりから亀島川へ入り、日本橋の方まで上がっていきます。

以下の写真では「日本橋」の橋下。この黒いススは関東大震災の時の焼け焦げた跡とのこと。

日本橋の下を通過

長い間港がなかった東京

明治になり鎖国が解け、全国各地の海港がそのまま国際貿易の港に転身する中、東京だけは江戸港から東京港になれない。
首都東京に港を作る話が持ち上がるが、横浜港が反対する。

横浜にとってはすぐ近くに港ができると負けてしまう。そこで東京は戦後まで建前上は「港湾」のない街として発展していく。

東京湾側へ

月島

ちなみに、明治に埋立地としてできた月島。

月島にある #住吉神社。
東京湾の埋め立て地で、神社があるのは住吉神社が最後とのこと。これより後にできたところは新しいので、神社は立っていない。神社があるというのは、古くからその土地にあるから。

既成事実の積み重ねで作った東京港


横浜の反対もあり、表立って港湾開発の出来ない東京。それでも物資は集まる。
そこで、港湾港ではなく河川港として発展を遂げていく。
河川は川のこと。港湾は海。
そのため、この東京湾の埋め立て地は、戦後になるまでは法律上は「川」として扱われていた。

明治時代、隅田川も荒川も今とは別の場所を通っていた。
隅田川の氾濫を軽減させるために、旧隅田川を荒川に繋ぎ、荒川自体は荒川放水路として新設。今の荒川はこの新設した放水路。

まさに私の滞在している北千住の駅の東口にもその名残がある。
隅田川を移設したことで、飛び地ができ、確か戦後くらいまでは足立区ではなかったとのこと。(東京の町田みたいな存在?)

北千住東口。ここがかつての隅田川?

さて、水路建設をすると、たくさんの土砂がでる。
さらに船を通れる水深の水路を作ると、たくさんの土砂を掘り返すことになる。

そんな大掛かりな工事が、明治から大正、昭和の初期まで続く。
その時に河川から出た土砂で作ったのが月島。
元々は海だった土地に島を作り、港湾は作れないけど、「河川港」ならOK(グレーゾーン)ということで発達していく。


戦後の東京港(とうきょうみなと)

河川法と港湾法、都市計画法の狭間で発達させた東京湾。

東京湾は「港湾」に出来なかった背景から、「河川法」の中の「河川港」として既成事実を積み上げていく。

今のお台場、レインボーブリッジあたりは、明治時代には東京湾の最終防衛線だったのだが、戦後になり埋立が始まっていく。
お台場の手前が内貿ふ頭で国内向けの港。レインボーブリッジより向こうが、外貿ふ頭となった。

東京計画1960~岡本太郎のオバケ東京構想へ

このお台場構想が、丹下健三の東京計画1960だったり、岡本太郎のオバケ東京の構想が出てくる。
そもそも河川法では、河川に纏わる水門や倉庫しか作れない。

その後の港湾法でも、港湾に関する建物しか建てられない。都市機能を持つ建物は都市計画法で規定されていて建てられない。
港湾法の但し書き、都市計画法の「関連施設」を拡大解釈して作ったのが、お台場や豊洲。


東京テレポートを金融センターとして位置づけ、金融センターがあるなら働く人の住居も必要と拡大解釈していった。
今ではタワマンや商業施設が立ち並ぶお台場や豊洲。色んな利権があったんだろうなと想像がつく。

世界都市博覧会のなれ果て?お台場


1996年に開催される予定だった世界都市博覧会。結局は開催されず、その残り香が今のお台場でありフジテレビ本社。
2020年の東京オリンピックで、コンパクトシティを打ち出しながら晴海に選手村を作ったのは、世界都市博覧会のリベンジ的な人たちがいたともいえる。

第二部のダイアログ

クルーズから戻ってきて、SHIBAURA HOUSEで後半の対話セッションが始まる。
対話セッションの詳細は、上記のSHIBAURA HOUSE公式のレポートを参考に頂きたい。

芸術家の岡本太郎、建築家の丹下健三の交流の中で、高度経済成長期の東京の在り方を探っていく。

ここは人により意見も異なるだろうし、真実が何かは分からない。ただ、あれこれ想像を膨らませる事自体、楽しいのではないか。

おわり

陸地から見る大都市、東京もおもしろいですが、海や川という水脈から見ると違った一面が見えてきます。
ロジックだけでなく、当時の情勢、文化、民衆の意識などを感じながら見ていくのは面白いですね。

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