死刑囚と被害者家族のアートを通じた交流~刑務所アート展に行ってみた(備忘録)
先日に、近所のBUoYで行われていた刑務所アート展に行ってきた。
想像以上の気づきがあったのでシェアしたい。
BUoYとは?
2階は元ボウリング場、地下は元銭湯の廃墟を改装した、劇場・稽古場・ギャラリー・カフェを擁するアートセンター。2階はカフェとして営業している。
刑務所アート展
刑務所アート展は、「全国各地の刑務所に服役する受刑者からアート作品を募集した展覧会」で、作品へのコメントを受刑者に還すことで、壁で隔てられた刑務所の内外の交流を作り出すプログラム。
詳細は以下をWebサイトを見て頂きたい。
さて、気づきがあったのは、メインの展覧会よりも、死刑囚と被害者家族とのアート交流の部分。
2つの例が紹介されていたが、一つだけ紹介したい。
※時間がなく、じっくり展示を見れていないので細かい部分で誤解や齟齬があったらすみません。
被害者の弟が死刑の減刑を求める
ざっくりと覚えている範囲で記述したい。
加害者が殺人により亡くなった被害者の弟さん。
加害者から度々、アートが届くようになり、ずっとモヤモヤして無視していた。
しかし、10年が経過し、何度も思い悩んだ挙句に、刑務所で面会に行く。
被害者家族としてモヤモヤした感情をぶつける相手がそこにいたと。
近代的な司法制度では、感情は排除して論理的に客観的に進める。弁護士、検事、裁判官などは、被害者家族への同情の気持ちは職業の業務の一環として行う。
そのため、人間的に成熟した大人であるほど、そこに感情的な話は持ち込まむのは不適切だし、持ち込まない。
実際に面会して、本当に感情をぶつけられる相手は死刑囚となった加害者だと気づく。
その加害者が死刑でいなくなってしまうのは困る。そこで法務省に死刑の減刑を申し出て、死刑反対の活動を始める、加害者の弟さん。
という内容。
この展示をみて、色々な複雑な感情がわいてきたので、整理してみたい
現代法制度における償い(つぐない)とは?
当事者の感情がなるべく入らないように、客観的に社会が司法プロセスにとって償いを決める。
死刑という極刑の刑罰が当事者である被害者家族が望まないとしたら?
司法プロセスと共に、被害者家族そして加害者のグリーフケアに似た重要性も垣間見える
(グリーフケア自体は、死別の悲しみにどう向き合うか?というもの。殺人による場合、被害者家族と共に、加害者もあるんだろうなと)
※グリーフケアとは
以下、日本グリーフケア協会のページ参照
赦し(ゆるし)とは?
そこで浮かぶのが、ルワンダやウガンダ北部で行われた ガチャチャ のような地域コミュニティによる伝統裁判
1994年のルワンダのジェノサイドの時に、同じコミュニティ内での虐殺が多くの村で起こった。
ウガンダ北部では、内戦でゲリラが子供を誘拐し、子ども兵として訓練し、自分の村や家族を襲わせた。
これに対して、国際刑事裁判所(ICC)が現代法による裁判に加えて、ガチャチャを併用した解決が行われた。
ガチャチャは、地域コミュニティによる伝統裁判(民衆が参加して、加害者の罪の自白と謝罪を通じた和解、赦しのプロセスだ。
ガチャチャについて詳しく知りたい方は検索すると色々出てくるので見てほしい。
南アフリカのアパルトヘイト後の、真実和解委員会(TRC)のような役割を果たしたと言われる。
現代法の償いとは別の、当事者の心の和解プロセス。
赦すとは何か?を考えさせられる。
加害者の償い~プリズンサークル~
同じく加害者の償い、赦しも感じる。
思い浮かんだのはプリズンサークル。
受刑者が互いの体験に耳を傾け、本音で語りあう更生プログラム。
日本では、島根県の刑務所で取り入れられた。
書籍も映画も出ているが、プリズンサークルを読むと、この状況では自分も加害者になっていたかもしれない。と感じる。被害者と加害者の境界は曖昧なものだ。
※詳細はこちら
※映画はこちら
現代法で決められた刑に服すだけで、内省を促すわけではない。
加害者がトラウマとなっている傷に向き合う中で、罪を認識し、償いをしていく。
もう一つの例もとても興味深かったが、よりセンシティブで上手く表現できる自信がないので、ここまでにしたい。
もう少し上記を整理できたら、また記したいと思う。
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