見出し画像

爆睡おにいさんの指輪

「この電車は、折り返し運転となります。発車準備が整うまで、しばらくお待ちください」

とある私鉄の上り電車の終着駅は、下り電車の始発駅だ。

その日、仕事の都合で、その電車に乗らなければならなかった私は、その始発駅のホームで電車を待っていた。電車が到着して間もなく、「プシューッ」と音がして、電車のドアが開いた。

発車準備が整ったから、ドアが開いたばかりのはずなのに、男性がひとり、すでに座席を占領していた。

それは、スーツを着た30代くらいのおにいさんだった。口をポカンと開けて、ぐっすり眠っていた。横になって、座席を3つも占領して。

折り返し運転の電車のドアが開いた時、ポカンと口を開けて人が眠っている光景は、決して珍しいことではない。週末の夜なら、よく見ることで、「あ~あ、飲みすぎちゃったんだね」で終わるはずである。そのことを、電車の乗客もよく知っているから、誰も気にも留めない。

だが、その日は違った。

なにしろ、そのおにいさんは、横になって眠っており、座席を3つも占領していた。しかも、その日は、週末ではなく、平日の夜であった。

その電車に乗り込んで来た人の中に、たまたま、3人グループの若い女性がいた。3人は「並んで座りたかったのに、このおじさん、なんなの⁈」といわんばかりの表情をしていた。

そして、その中のひとりがホームに戻ったかと思うと、駅員を呼んで来たのである。

呼ばれた駅員は、迷惑そうな顔をしながら

「お客さん、ここ、終点ですよ。どこまで帰るんですか?」

おそらく酔っ払いであろう、そのスーツのおにいさんに、駅員がそう呼びかけたが、まったく、起きる気配がない…。

仕方がないので駅員は、おにいさんの両脇に腕を入れ、抱きかかえるようにして、座席から引きずり下ろした。その時、おにいさんは左手にスマホを持っていた。

そして、その左手の薬指には、指輪があった。

この人、結婚してるんだ…。いや、正直な感想を言えば「こんな人でも、結婚できるんだ」と思った。

「う、う~ん…」

ようやく、低いうめき声とともに、スーツのおにいさんが少しだけ目を開けた。

「あ~、ウニャウニャウニャ…」

その様子を向かい側の座席で見ていた私には、おにいさんがなんと言ったのかは聞き取れなかった。しかし、おそらく駅員に向かって

「オレは、○○駅まで行きたいんだ」というようなことを言ったのだと思う。

駅員は、おにいさんを抱きかかえながら「○○駅まで行くんですね?本当に、行くんですか?大丈夫ですか?」と声をかけていた。おにいさんは

「うん、うん。そう…。そこまで行くんだ。大丈夫だから」

かなりフニャフニャの状態だったが、駅員にそう言ったものだから、駅員は仕方なく、座席から引きずり下ろしたおにいさんを手放した。おにいさんは

「ふみません…。ありあとうごらいました…」

というようなことを、いかにも酔っぱらった発音でムニャムニャ言いながら、一応、立ち上がった。そして、ドア横のスペースに立った。

おにいさんが立ち上がったのを見て、3人組の若い女性は空いた席に座り、駅員はその場から立ち去った。

「ピーリリリリーッ!!」

大きな発車ベルの音がして、電車のドアがゆっくりと閉まり、電車は動き始めた。

ところが…。

駅員から促されて、立ち上がったはずのおにいさんは、ひと駅ごとに、体勢を崩していった。ひと駅目で、寄りかかったドアに頭をあずけ、二駅目には、頭をドアにあずけて立った状態で、再びポカンと口を開けた。三駅目には、だらんと垂れ下がった左腕から伸びた左手に持っていたスマホが「ゴトン」と音を立てて落ちた。

辛うじて、スマホが落ちたことには気がついたらしい。おにいさんはあわてて目を開けると、落ちたスマホを拾い上げた。

しかし…。

四駅目には、もう、立っていられなかったのだろう。おにいさんは、ひざから崩れ落ちた。周囲に立っていた人たちは、ちょっと離れたが、おにいさんの様子から「コイツ、酔っ払いだな」というのを察していたから、別に驚いた風でもなかった。

ああ、ついに、再びおにいさんは、横になって眠ってしまった。しかも、今度は座席ではなく、電車の床の上で。

そこまで見届けたところで、私が降りる駅が近づいてきた。危うく、乗り過ごしそうになった私は、手元の荷物を改めて確認し、降りる準備をした。

電車は徐々にスピードを落とし、静かに駅のホームに止まった。私が降りる駅だ。

「プシューッ」と音がして、電車のドアが開く。幸いにも、おにいさんが寝ているのとは、反対側のドアだった。

私は、電車を降りた。降りる間際、ほんの少し振り返って、おにいさんを見た。

おにいさんは、やっぱり、ぐっすりと眠っていた。電車の床の上で。

あの日、彼の妻は、どこまで彼を迎えに行ったのだろう…。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?