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子育てと親のコンプレックス

子どもが小さい頃合いは、育児はほんとうに「目の前の子ども」を育てるという純粋な行為であって、その瞬間がすべて。どう育てたい、とか、どんな子どもになってほしい、とか、そういうことを考える余裕なんてない。とりあえずぼくはそうだった。数年前、育児を題材とした小説でこんなことを書いたことがある。

こういうとき、幸子には一秒先のできごとがみえた。
それがほんとうに一秒なのか、それとも二秒なのか、三秒なのか、あるいは一分なのか、厳密なただしさについてはわからないけれど、ともかくそれはわずかに先のことだった。ふとんを干しているいま、幸子にはふとん叩きがこの六階のベランダからおちていくのがみえ、それはふとん叩きじゃなくてふとんでもありえる。そして意識的に目をそむけなければさらにさきのこともみえるのだった。おちたふとん叩きがアスファルトをかん高い音をたてて三回はねたり、ふとんが二階したのベランダにひっかかったり、こういうことが自動的にみえてしまうことはきっととくべつなことなんかじゃないと幸子は信じていて、それは何歳のときだったかおもいだせないくらいのおさないころからずっとで、だれかに話すきっかけをうしないつづけながら彼女のからだにしみついている。きのう、この国のどこかでしらない子どもが室外機にのぼってベランダからおちてしまった。三歳だったその子は意識不明のまま病院に搬送され、八時間後に死んだ。幸子はベランダの室外機をみると息子がおちていくのがみえる。その光景のつづきを歩き、室外機の横から階下をのぞけば息子の亡骸がみえる。わたしは大丈夫だ。幸子はおもった。反射的に想像される未来たちがじっさいに起こりえたことなどただの一度もないく、それゆえに幸子は安心する。息子が何度も死を死んでいくからこそ、ここにいるかれはぜったいに死ぬことはない、だからわたしは、息子を何度でも殺さなくてはならない。息子の足が室外機からはなれる。

この小説を書いているとき、ちょうど会社員をやめたばかりだった。長男が生まれて半年がたった夏だった。
会社をやめたのは子どもをちゃんと育てよう、みたいなことが一応の理由になっているけれど、実際にはなんでやめたのか、当時考えていたことを正確におもいだすことができない。神戸に住み、ぼくは心斎橋へ、妻は加古川へ勤務していて、これで子どもを保育所にあずけ、毎日18時に迎えにいく生活をぼくらはうまく想像できなかった。そもそもぼくの会社の終業は18時30分でそもそも間に合わないし、給料は妻のほうがぼくの倍くらいあって、妻の会社の福利厚生をうけてなんとか生活できてきた。そのとき「あれ、おれが働いたほうが生活苦しくね?」みたいなことがわりと深刻な問題にあがったことをおぼえている。ともかくそうしてぼくは会社をやめて、育児をしながら在宅で文章の仕事をはじめた。
文章の仕事も以前に比べれば「家族に迷惑をかけない」程度には稼げるようになってきて、息子もすくすく育ち、妹も生まれてお兄ちゃんになった。娘のほうは先月一歳になった。二人目なので要領がわかっているというか、「慣れ」みたいなのも出てきて、息子が一歳のときよりも楽だ。「慣れ」だけじゃなく、息子が妹のめんどうを良く見てくれるから助かる。たまにエグめのイジメ行為をしているけれど、絵本を読んであげたり積み木のたのしみかたを教えてあげたり、歌を歌ってあげたりしていて、ふたりともたのしそうでうれしい。
いままでは毎日の生活で精一杯で、息子と娘をどう育てたいか、なんて考える余裕がまるでなかった。
ただ、あと二年で息子が小学校に上がることを考えると、ふたりをどう育てるか、少なくとも「どこで育てるか」を決めなくてはならない。

ぼくはいわゆる「田舎の長男」というやつだ。地元は淡路島北部の東浦というところで、阪神の近本選手とおなじ中学校出身らしい。近本選手はぼくよりもだいぶ学年が下で、ぼくが所属していた野球部の後輩にもあたる。ネットでみたインタビュー記事で登場した「中学時代の近本選手の恩師」は、ぼくが野球部だったころの副顧問の先生だった。その先生の記憶はほとんどない。ぼくのときの監督を務めていた顧問の先生はぼくの人生の恐怖を象徴するようなおそろしいひとで、いまおもえばなんであんなに怖いひとのもとで毎日(盆と正月にしか休みはなかった!)練習していたんだろうと不思議になる。野球部はけっこう強かった。野球はきらいじゃなかったけれど、身体もちいさく(150cm29kgしかなかった!)、本番に弱すぎる豆腐メンタルのぼくがレギュラーになれるわけもなく、試合に出れないのに練習をがんばりつづけていたのは、たぶん野球を好きだとおもいこもうとしていたからだ。まじめに部活に取り組むことが、野球の好き嫌いよりもたいせつだとおもっていた。
当時のぼくには好き嫌いというものがほとんどなく、じぶんでなにかを考えたり選んだりしたことがなかった。ぼくの代の監督の公認である「近本選手の恩師」はインタビューのなかで「近本は社高校に進学したかったけれど、父親に母校である津名高校に進学するように説得された」というエピソードを語っている。津名高校はぼくの母校だ。ぼくが中学生のとき、同級生は100人いて60人が津名高校に進学した。「近本は父親への抗議として家出をした」とインタビューで語られていた。ぼくは高校受験とかそういうもので悩んだことなど一度もなく、むしろ気がついたら津名高校に進学していた。ふりかえると、進路についてなんらかの選択をした人間はだれも津名高校へは進学しなかった。かれらはみんな、明石海峡を渡って島の外の学校に進学した。高校生になって、大学進学を考えるようになって、ぼくははじめて明石海峡の向こう側の遠さについて考えられるようになった。海を渡れるか、渡れないか。ぼくの大きなコンプレックスは「海を渡れなかったこと」かもしれないとさいきんおもう。
(津名高校では部活をがんばった。ギターマンドリン部がなかったら、とおもうとけっこうゾッとしてしまう)

うちの父親は去年からずっと阪神の近本選手の話しかしない。近本の打率と盗塁の数の話を無限にし続け、その話題の隙間に「いつまでわけわからん仕事しよるねん」「おまえいつ淡路に帰ってくんねん」という重めの話題をねじ込んでくる。そういうときだいたい父は酒を飲んでいるので、ぼくは「酒飲みにする話じゃない」といって逃げる。妻はさいきん、うちの母に「ハル(息子)が小学校にあがるころに淡路に帰ってきてくれたら一番ええんやけどな」といわれたという。「子どもをどこで育てるか問題」についてそろそろ決着をつけなければならない。いよいよそのときがきたんだな、と我々はおもった。

いまのところ、淡路島で子どもを育てたいとはおもわない。

じぶんの「どう子どもを育てたいか」を見つめなおしてはじめて、親が子どもの育てかたを考えるとき、「じぶんが受けてきた教育を受けさせたい」というよりも、「じぶんが受けられなかった教育を受けさせたい」とか「じぶんが被った不利益から子どもを遠ざけたい」とか、子どものときのあまり良くない思い出から生まれた感情に派生する発想を持つ傾向にあるかもしれない……という考えがよぎった。
それはある意味で「親のコンプレックス」が反映された子どもの育てかたであり、そうした個人的な経験や感情が、かれ・彼女の成長の土台となる環境に強く影響してしまうことの是非が不安になった。ぼく自身が「故郷を好きになれないこと」、「淡路島で育ってしまったこと」がふたりの子どもの人生になんらかの影響を与えてしまいうるのがおそろしい。なにぶんぼくは、故郷によい思い出をもっていないのがよろしくない。

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