絵画による思考訓練の方法
前回の投稿で、演繹思考の効用について書きました。そして、今回は演繹思考のトレーニングとしての絵画鑑賞について書いていきます。
絵画とは世界の一部を切り取ったイメージに、言葉でもってディテールを埋めていくという作業になります。
言い換えれば、絵画の中の演繹的世界を言葉でもってあなた色に汚していく作業でもあります。
何回も言いますが、この演繹世界を構築することは、生き方そのものに地殻変動をもたらします。
今回の投稿では、この点でみなさんに演繹的であることの意味を再確認していただくことと、絵画を見ることの意義について書いていきます。
演繹的に生きることの意義
演繹的な人にとって生きることとは、その世界観をこの現実世界に落とし込み具現化することです。
トライ&エラーとは細部における確認のことであり、イメージとしては演繹的な構造物の細部を経験によって色づけしていくということです。
対して、帰納的な人にとっては、その思考や所作は目的のないトライ&エラーの連続であるが、恣意的な要素が大きく絡み、ゆえに仮に成功したとしてもそこに再現性は乏しいです。
構築したい世界観がないので、すべての成功体験や失敗体験はその場限りで、アピールしたところで切り売りにしかなりません。
感情がこの世界を汚していく
演繹世界とは、そこに存在する絶対的な世界のことであり、汚れのない世界です。なぜ汚れがないかというと、そこにはあるがままの世界が表現されているからです。
あるがままとは私たちがどう頑張った所で変えようのない世界ということです。つまりは演繹世界とはあるがままの世界を記述したものであるのです。
生きるとはそういったあるがままの世界、アプリオリな世界の中で生きるということです。ここに抗った所で意味はないというのは大人なら誰でも分かることです。
しかし、このアプリオリな世界というのはとても広大なものです。生きることとは、このアプリオリな世界、あるがままの世界が一体どういうものなのかを確認するための作業と言って良いかもしれません。
生きるというのは感情に汚されていくことではありますが、同時に生きるとは感情で汚した世界を一つ一つ綺麗に拭き取っていくこととも言えます。
そして哲学とは、世界の汚れを拭き取っていき、純度の高い世界を見出していく行為に他ならないのです。
なぜ絵画は演繹的なのか?
絵画とは世界のあるがままの姿を視覚的に描写した表現様式です。
言葉による表現と大きく異なるのは、目に見える現前の世界を元にイメージとして表現する点であり、従って視覚力に大きく依存します。
さらに、言葉と違い、キャンパスという決められた枠の中で世界を描くことから、より全体を捉えやすい表現形式とも言えます。
この全体を演繹し、細部を色などで埋めていく表現形式という点では、演繹と帰納を実践する方法としては、言語よりも効果的と言えるでしょう。
私たちは目をしっかりと使えているのか?
少し哲学的に小難しい話をすると、私たちは何かを見ることによって信じることができるようになります。つまり見る=信じることなのです。これが大原則です。
例えばAさんという人の存在を信じられるのは、その人の姿形をしっかりとこの目で見た時です。
しかしその人の姿をずっと見るのは物理的に不可能な話です。遠く離れている時に、その人の存在を信じるには別の手段を使わないといけません(テクノロジーはこの「信じる」ことを続けたい故の手段とも言えます)。
逆にいうと「疑う」とは見えていたものが見えなくなった時に生まれます。つまり見ていることと信じていることの間に差異が生まれたときに、疑うという心理が誕生します。
そしてこの疑いの迷宮に入ると、人はあるがままの事物が見れなくなってしまうのです。
信じることとは見ることであり、見ることとは信じることなのです。果たして、私たちはどこまで世界を見れているのでしょうか?
またはどこまで信じるために見れているのでしょうか?
これはとても重大な問いです。
絵画を観ることの意義
従って、絵画を見るとはイメージ全体を捉えることが先で、その全体を俯瞰した上で細部を観察(帰納的解釈)していくことから、演繹→帰納の思考訓練をする上で最適と言えます。
またイメージ全体を捉えるという行為自体は、私たちの思考の乗り物である肉体の使い方にも大きく関係してきます。
思考と肉体の使い方の鍛錬として、絵画鑑賞はもっとも身近な方法なのです。
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