人が人を裁けるのか

2017年に公開された是枝裕和監督の『三度目の殺人』を観ました。

福山雅治演じる弁護士・重盛が、供述を二転三転させる殺人容疑者・三隅(役所広司)や被害者の遺族に翻弄され、真実を追い求めていく姿が描かれた作品です。

昨日は「器」に関して書きました。

今日は「司法制度」についてです。

法廷は真実が究明される場所ではない

この映画に関する是枝裕和監督のインタビュー記事がありました。
是枝監督の言葉に対して様々な疑問や思いがでてきます。
そうした問題意識こそが是枝監督の狙いだったのかと思います。

その最たるものがこれです。

「弁護士からすると、法廷は真実が究明される場所ではないんです」と言うんです。じゃあ何をする場所なのかと聞くと、「利害調整ですよね」と答えた。

ハフポストより

この作品のもつ問題意識を共有することが着地点だとしています。

裁判は真実を追及する場ではなくて"利害調整"をする場だという前提で弁護士を描くことで、弁護士や今の司法システムを批判したいわけではありません。冤罪をなくそうと声高に訴える映画でもない。
でも、真実はわからないんです。それでも次の裁判に向かわなければいけない。その宙吊り感というか、釈然としない感じを、映画を観た人に共有してもらうというのが、この作品の着地点だと思っていました。

釈然としないまま、え!そうなっちゃうの?
そうなるんだね。
そうかもね。

そうして真実はうやむやになっていくのか。
真実はわからないのが前提なのか!?

毎回、真実の究明などやってられない

職業としての弁護士からすると毎回、真実の究明していたら身がもたないのかもしれません。プロレスだって毎回、命削ってやっているわけではなく、エンターテイメントとして、ショーとして命がけでやっていると思います。

本来は、何から何まで全部答えを出せるわけじゃない。人間のやっていることだから。そして、答えがでないという曖昧さからどうしたって逃れられない人間が、ある種の絶対的な裁きを下さなければいけないから、司法というシステムがあるんです。

司法システムでは何らかの結論を出して幕を引かないといけない。

それはわかります。

でも置き去りになった当事者はどうなるのでしょう。

真実を究明してほしいと懇願する気持ちはどうなるのでしょう。

そして、私たちは社会の中に生きている責任として、そのシステムを受け入れているということに気付くべきだし、自覚的になるべきだと思っています。

この作品を観てもらうと、自分が生きている社会とか、司法というものが、ちょっと怖くなるんじゃないかな。それが大事で、そこからがスタートだと思っています。

監督は、現在の司法システムのその先に何となく描いているものがあるのではないかと、しかしそれをはっきりと提示することもなく、国民の中の成熟した議論を待とうとしているのではないかとさえ思います。

西洋法の継受はうまくいっているのか

継受とは、「狭義には中世ヨーロッパにおけるローマ法の継受を意味するが,広義にはある国家または民族が他の国家または民族の法を主体的に,自己のものとして受入れる過程」とのことです。

日本は近代化において西洋のシステムをごっそりともってきました。あらゆる文化や宗教を受容する懐の広い日本の自然観でうまくとりいれたかにみえました。

でも司法の根源的な部分では相容れず、なかなか定着していないのではないでしょうか。大岡裁きがよかったかどうかわかりませんが、裁判というシステムがあまりうまく関心をもたれていないような気がします。

日本人にとって法とは何か?
西洋法を継受する過程で、この国は何を取り入れ、何を棄ててきたのか?そもそも、法はわれわれの法意識に合ったものなのだろうか?長年にわたり議論されてきたこれらの問題を、改めていま問い直す。

◆「大岡裁き」の法意識とは?
・裁判所はこわい(いやな)場所である
・裁判官は人格者であるべきだ
・杓子定規でない、柔軟な解決をすべきだ
・金銭を請求するのは、強欲だ
・もめごとは、個人の問題ではなく、みんなの問題である
・勝者と敗者をはっきりさせず、「まるく」おさめるほうがいい

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