見出し画像

映画『天河伝説殺人事件』は見方次第で市川崑のこだわりに超驚愕できる

1991年、角川書店全盛期の映画『天河伝説殺人事件』。浅見光彦シリーズを市川崑が監督を務めた映画。

これ「午後のロードショー」で初めて観たんですが、評価低いんですね。良かったのに。
いや「あぁ……まぁね」とうなずける部分も確かに多い。
ストーリーの粗さとか。
犯人バレバレな感じとか。

でも、それもこれも市川崑のこだわりなんだろうなあと。
私はこれ、そういうこだわりというか、演出込みで観ないと面白くない映画だと思うんです。

で、そうやって観たときに、考えさせられるんですよ。
あなたは表情と感情とを、さらしていますか?」と。

多くの感想は否定的

以下、基本的にネタばれも含むことをご了承ください。
まず、この映画、あんまり評価が良くないことは冒頭のとおりです。んで、ちょっといくつかのレビューから、代表的な批判をつまむと…

・金田一耕助シリーズの焼き直しに過ぎない(マンネリ)
・コントラストの強い映像が嫌(演出が悪い)
・役者が棒読み(演技が下手)
・犯人がすぐ分かる

さらに、当時CMで煽られ過ぎた分だけ、こうした内容に強くガッカリしたという方も多いよう(PRのためだけに中森明菜『二人静』というのも贅沢というか、もったいないというか)。
また、浅見光彦像が違う(トヨタ・ソアラでなくジャガーとか)という方も……。

私の見方:知らずに面白がれた3つの理由

その上で、そもそも私が面白く観られたことには、強みがいくつかありました。

①当時を知らない
まず、私は当時6歳でした。この映画はもちろんCMも観た記憶がありません(苦笑)。
なので、変な期待もなく、1991年をただ新鮮な目で見られたという強みがありました。

②浅見光彦を知らない
私は浅見光彦を「フリーのルポライターで探偵をやってる」くらいの知識でしかなく、2時間ドラマも原作小説も一切観たことありません。
なので先入観と言えば「中村俊介が演じてるよね?確か」くらい。歴代の浅見光彦がいるだろうけれど、榎木孝明がやってるなんて知らなかった。
そのくらいの知識で見ると、期待も何もなく良い感じ。

③金田一耕助と市川崑を知っている
その一方で、金田一耕助と市川崑は知っています。
あえて言えば、わりと強めに。市川崑の金田一映画は、1976年『犬神家の一族』から、1979年『病院坂の首縊りの家』まで、一連を観ていることは当然で。
なので、市川崑のミステリーである「金田一テイスト」への先入観はバリバリにあります。

既視感と新鮮さで面白い

こうした前提があって、「浅見光彦を観る」というより「金田一を探してみる」という、スタンスできっと観られたんだと思います。

すると、冒頭のナレーションが石坂浩二の声で、「あっ、金田一」となるし、大滝秀治、加藤武という役者陣に、加藤武の例のジェスチャーに逆に嬉しい。「まんまだ!」と(笑)。
おどろおどろしさや画面の暗さには「あぁ、市川崑って、これこれ」となる。
だから、焼き直し、という印象にはなりませんでしたね。

そしてもちろん、初めて観る映画という意味でも新鮮。
まぁ、冒頭のとおりで、ストーリーは粗いし、犯人はバレバレなんですけどね……。

けれども、この「犯人はバレバレ」にこそ“市川崑のこだわり”という本題があると思うんです。

光へのこだわり

さて、記事としても、本題に入ります(ようやく)。

『天河伝説殺人事件』で一番印象的なのはライティングだと思います。光と影が強調されているんです。
これは市川崑の演出の特徴でもあります。
例えば『犬神家の一族』では、もっと強調して白・黒2色だけでのシーンでショッキングさを表したりしてきました。独特の映像美です。

それに比べると『天河伝説殺人事件』では和らぎますが、表情が見えなかったりする。特に、顔の右半分に光があたり、左半分は影になって見えないなど、表情の一部が隠されているシーンばかり。

これに対して、否定的な感想は多い。
けれど、私はこれは意図的に顔を隠しているに違いないと思います。
あえて顔の半分を隠しているはずでしょう。
と言うのも、この映画では、対照的に最初から最後まで、顔が半分でない人物がいるんですね。

犯人が分かる本当の理由

この映画を否定するときに、ストーリーから犯人が分かるという話があります。
けれど、実はもっと早くに分かります。

極端な話で言えば、キャスティングを見れば、「犯人の格」という視点で、岸惠子、岸田今日子、日下武史のいずれかだろうと当たりはつきます。
けれど、さすがにピンポイントでは分かりません。

しかし、先のとおり、光に注目すると犯人が序盤で分かります。

この映画は、基本的にどの人物も顔の半分がどのシーンでも隠れています。光と当て方か、あるいは横向きの構図によって、半分しか表情が見えない。

けれど、序盤。
奈良県吉野で、浅見光彦が駐在に密猟を疑われるシーン。駐在所で揉める2人に、浅見が冤罪であることを証言する女性が現れる。この女性が正面を向いているのに、逆光で顔が“全面”見えない。この扱いの差。
彼女が、本映画の犯人、岸惠子演じる長原敏子です。

注意して観れば、その後、顔は右も左もライトアップされています。例えば、浅見光彦と対峙するシーンで、彼の左半分は影で暗いのに、敏子は右も左も明るいという具合。
本来、通常の光が当たり、2人が向き合っていて、片方の半身が暗ければ、もう片方の半身も暗いはずです。

これを市川崑は徹底的にやるんですね。文字通り、この犯人にスポットを当ててるんです。
この点を意識して観ると、市川崑の徹底ぶりに驚愕します。
前半あたり、財前直見演じる水上秀美が浅見光彦と旅館で会うシーン。秀美が左前に歩き、あえて影に入り、左半分を隠すように、浅見と対する。立ち位置の細かな指定を考えると、こだわりが(そして役者・スタッフへの指示の数々を想像して……)恐ろしい……。

なぜ顔を隠すのか?なぜ顔をさらすのか?

そこで思いませんか?
では、なぜ犯人は顔をさらし、他の人物は顔を半分隠すのか?
つまり「なぜ、市川崑は犯人がバレバレな演出をしたか?」という謎です。

私はこの答えを「能」に見ます。

『天河伝説殺人事件』でも印象的なアイテムとして能面があります。

いくつもの能面が出てきますが、能面をかぶれば物理的に表情を変えられません。目を開くことも口角を上げることもできない。
しかし、舞台の上で、能面は実に様々な表情を見せられる。
なぜかと言えば、角度を変えることで、見え方が違うからです。
もっと具体的に言えば、「光と影」が変わるため。

市川崑が、役者のせっかくの顔を半分隠すという演出をここで多用したのは、「能」の形を借りたからだと、私は思います。
つまり、登場人物は言わば半分、仮面をかぶった状態。
一方で、顔をすべて出すことは、仮面をかぶっていないとも読めますし、アイロニーとして仮面をすべてかぶっているとも読めると思います。犯人は殺人を隠すために嘘をつく。本心を見せないようにしなければなりません。

ダウンロード (4)

この点、市川崑の映画への考え方も表れていると思います。

結局、役者には“仮面”をかぶせ、物理的に表情が作れないとしても――演技をしないとしても、光の当て方という演出ですべて伝えていくという、こだわりです。
そう考えてみると市川崑は、「役者が棒読み(演技が下手)」なのも「あえて」狙ったのではないでしょうか。
必要以上に饒舌で演技のウマい役者を入れるのではなく、ただセリフをしゃべり、指定位置に動いてくれる役者であれば、市川崑にとって問題はなく、むしろそうであってほしかったのではないかなと、私は考えます。

とは言っても、映画を魅力的に動かすシカケとして、犯人である岸惠子には表情をすべて出させ、目いっぱい演技をさせる。演技の上でのコントラストが非常に強まります。
岸惠子は、同じく市川崑が監督した金田一シリーズ『悪魔の手毬唄』に出演し、同じく犯人役です。このあたり、金田一の(良い意味で)焼き直しでもあり、また市川崑から岸惠子という役者への信頼でもあったのではないかなと感じます。

こうした私の考えが正解か分かりませんが、最後のシーンで石坂浩二演じる兄、浅見陽一郎が次のように言います。

「能は約束の芸術であると言われている」

ここで陽一郎に言わせていることは、正に、この映画の演出手法ではないでしょうか。
そして、能をテーマにとる『天河伝説殺人事件』だからこそ、この点を強調し、「約束」を作って、市川崑は映画を作ったのだと私は考えます。

表情と感情と

映画のクライマックス、川辺に横たわる犯人の死体に立ちすくむ浅見光彦。
そこで、浅見は両手で顔を覆い、泣きます。

そう、顔を覆うんです。
これは「仮面をかぶる」というメタファーではないでしょうか。
しかし「仮面をかぶった」からと言って、本心が見えないのではない。
むしろ見える。
浅見はこのシーンで、映画中、最大限に感情を爆発させている。表情は見えないけれど、感情は見えています。

そこから逆説的に、鑑賞者である私たちに、映画で顔をすべてさらけ出していた犯人は「表情は見えていたけれど感情は見えなかったのだ」ということに気づかせるという演出意図があったのではないか……本来は。

実際のところ、この映画は冒頭のとおり評価は低く、それもこれも金田一シリーズの焼き直しという点が強調され過ぎたからだと思います。そのせいで、市川崑がここで徹底的にこだわった演出と、そこにある意味が伝わりづらかったように思います。

そして、そこまで考えて、恐くもなる。

犯人以外の人物は、表情を出していた。半分だけ。
つまり、私たちは、表情と感情とを、いつも半分だけしか表していないのだという鑑賞者へのシニカルにメッセージに、市川崑がこれほどにこだわったのだと。

『天河伝説殺人事件』。

本当に素直に表情を出しているのは、面をかぶる犯人か、はずした犯人か、他の圧倒的多くの半分表情の陰る登場人物たちか……

「市川崑は、そんなメッセージを込めたのではないか?!」

私はそう思い、そして、超驚愕したのでした。

この記事が参加している募集

映画感想文

よろしければサポートお願いします!いただいたサポートは、活動費や応援するクリエイターやニッチカルチャーハンターへの支援に充てたいと思います!