見出し画像

新宿と音楽、ネオ・ヴィジュアル系ブームを駆ける。

00年代、うちは所謂バンギャと呼ばれる種族であった。
バンギャとはここではヴィジュアル系(以下:V系)を聞いたりライブへ足を運ぶバンドギャルの事を指す。V系好きな男性の事はギャ男と呼ばれていた。
ヴィジュアル系氷河期と言われた時代に中学生だったうちはお小遣いも少なく、お小遣いが潤沢にある同級生のナッチのお世話になっていた。
ナッチは、「SHOXX」「FOOL‘S MATE」「B-PASS」「KERA」「Cure」「Vicious」「ARENA37℃」「CDでーた」「音楽と人」等の音楽雑誌、V系ミニコミ誌を毎月買い、V系バンドの新譜やネクストブレイクするロックバンドのCDを毎週新宿で買ってくる、そして筆記用具は全部「無印良品」で揃え、市松模様のラバーリングをしていたりお洒落であった、当時は「無印良品」は超お洒落雑貨の位置付けだった。
ナッチは良く色々な物もくれた。読み終わった雑誌、聴かなくなったCD、バンドのグッズ、アクセサリー。絵もとても上手く、コピックもくれた。
これから売れるバンドを分かっていて、良くタワレコで買ってきたCDを聴かせてくれた。メトロノームの「ヤプーが召還された街」も誕生日にくれた、これは後にプレ値がついてるのを見て吃驚した。
ナッチがいなければうちはV系に興味を持つ事はなかっただろう、そして埼玉にはV系に強い音楽番組が2つあった。NACK5ラジオ「BEAT SHUFFLE」を聴きテレビ埼玉の「HOT WAVE」を見てパソコンでライブレポを読み漁り、後は全部ナッチのお世話になりながら中学生生活を過ごした。
この頃はヴィジュアル系氷河期と言われていたが密室系、名古屋バンド、白塗り系、ピコピコ系、とヴィジュアル系御三家(ムック、メリー、蜉蝣)の勢いも凄まじく、オサレ系バンドの元祖「バロック」が流星の如く登場しV系インディーズシーンは盛り上がっていたように思う。
現代奇想音図鑑」というムックが2002年に発刊された。
これからのV系シーンの盛り上がりを予感させる一冊は当時V系を好きな人は誰もが買ったのではないだろうか。

ネオ・ヴィジュアル系ブームが到来する前夜に高校生になる。
バイトも出来るようになり都内は勿論の事、よく東名阪のライブハウスに入り浸り学校にもあまり行かず家にも帰らない3年間であった。
色々な街のライブハウス、色々な人の家で過ごしていたが、00年代にバンギャとして過ごした新宿とうちの話をしようと思う。

V系専門レコード店「ライカエジソン」と「自主盤倶楽部」

当時V系のCDは外資レコードショップには略々置いていなかった。
置いてあってもコテコテのヴィジュアル系というよりは、ニューウェーブやメタル、ロックの要素が入ったヴィジュアル系バンドのCDがよく分からないジャンル分けで数枚置いてあったらラッキーなものだった。
西新宿にはV系CDの専門店が二店舗あった「ライカエジソン」(通称:ライカ)と「自主盤倶楽部」(通称:自主盤)だ。しかも二店舗の距離は歩いて1分もかからない位置にあった。
うちの感覚なのだが「自主盤倶楽部」にはV系アマチュアバンドやコテバン(コテコテのザ・黒服のV系バンド)に強いイメージだった、後大量のバンドのポスターが置いてあった。
「ライカエジソン」はV系インディーズメジャー拘らず勢いのあるバンドがよくインストアイベント(通称:インスト)をしているイメージだ、密室系バンドもプッシュしていた。
すぐ近くの「柏木公園」をインスト待ちのお客さんがゴシックロリィタのお洋服を着てたりコスプレをした人がぐるっと列を作っているのを見ていた。
ムックのサインが入った黄色い看板の「ライカエジソン」にうちはよく行っていた。
「ライカエジソン」は1階はテープ、CD、ビデオ、DVD。2階は雑貨や雑誌が売っていた。うちは特に2階が大好きであった、V系に関連したアーティストのグッズが所狭しと置かれていたのである。
鳥肌実さんのグッズや、オナンスペルマーメイドさん及びドラァグクイーンの方々のカレンダーやブロマイド、寫眞館ゼラチンさんの写真集、小道具屋進一さんの作品集、ハンドメイドのアクセサリー、ミニコミ雑誌等が置いてあった。
オナンさんはcali≠gariのCDに出演していたし、ライブではドラッグクイーンの方々と一緒に豪華絢爛にステージに花を添えていた。小道具屋進一さんは密室系や白塗り系バンド等の小道具を制作していた。寫眞館ゼラチンさんは密室系バンドや色んな表現者を被写体に写真を撮っていて、鳥肌実さんの毒のあるギリギリアウトな笑いと玉砕スーツを着たヴィジュアルがV系と相性が良かったように思う。
当時はネットも浸透し始めた頃だったのでミニコミ誌がたくさん発刊されていた。「アプレゲール」「SWicH」「平成デカダンス」「wedge」「CLiCK」「サァカス」「カネコジル」や第2号くらいで発刊がぬるっと終了したミニコミ誌やフリーペーパーが沢山あった。
それを2階で一心不乱にどんなバンドがいるのだろうと小1時間漁るのが大好きだった。「SHOXX」で一番好きなページは白黒ページの「UP TO DATE」だ。このページは小さな箱で対バンライブをしている売れる前のバンドや地方のV系バンドが投稿で載っていた。このページが好きなのでディグりまくるのが大好き中の大好きなバンギャであった。
V系は音楽ジャンルであるが「文化」だと思っている、色んなジャンルの音楽、歌謡曲、ラウド、パンク、メタル、テクノ色んなジャンルを内包し、色んなジャンルの人と一緒に作り上げていて、ドラァグクイーン、デザイナー、フォトグラファー、パフォーマー、お笑い芸人、テレビリポーター、編集者色んな人を巻き込み、音楽、化粧、衣装、ステージング等々全てひっくるめてエンターテイメントを作っていた。多角的で刺激的に楽しめた音楽だと思う。
「ライカエジソン」は健在、「自主盤倶楽部」は2023年に閉業した。

後に売れるアンカフェや12012もこの時点でチェック

V系専門中古店「クローゼットチャイルド」と「ピュアサウンド」

「V系の中古屋さんが出来たんだって、行こ〜」と友達に誘われて行ったのが「クローゼットチャイルド」(通称:クロチャ)だった。
このお店も西新宿にある、先に言うと「ピュアサウンド」は「クローゼットチャイルド」から徒歩2分の場所にあり、「ライカエジソン」「自主盤倶楽部」も目と鼻の先にあった。
「クローゼットチャイルド」はゴシックロリィタのブランドのお洋服やヴィヴィアンウエストウッドのお洋服、アクセサリーを取り扱っていた。
簡単に説明すると当時新宿3丁目には「マルイONE」(通称:ワンジュク)という8階建のファッションビルがあり、そこに入る半分以上のファッションブランドがバンギャ御用達のお洋服や靴のブランドであった。それと当時のラフォーレ原宿のB1.5Fを合わせてギュッとコンパクトに纏めた夢のような古着屋さんだった。
それと同時に出来たのかは忘れてしまったが中古V系CD、グッズも取り扱っている店舗が出来た、所狭しとCDやグッズ、雑誌類が並んでいるのは感動ものだった。
当時リアタイで買えなかった物が買える!ヤフオクはあったものの中身までは画面では分からなかったし手数料や送料がかかった。「クローゼットチャイルド」では店員さんに「これ中身見せて頂いてもいいですか?」と聞けばレジで見せて貰えた。何度閉店時間まで買うかを迷った事か。数百万は注ぎ込んだと思う。
もう手に入らないCDやビデオやグッズ、アプレゲールのバックナンバー、バンドのツアーパンフ、デモテープ、うちは特にデモテープが大好きでリリース前の業界デモを買い漁っていた。
鍵のついたショーケースにはプレ値の付いた商品が並んでいる。ここで先程吃驚したメトロノームの「ヤプーが召還された街」が高値で鎮座していた。
高校生のうちはそれを見てナッチの先見の明はすごいやぁと思っていた。
大御所バンドの「X」 「GLAY」 「LUNA SEA」「黒夢」「PIERROT」 「La:Sadie's」「CROW」 のバンドのデモテープが高値で並ぶ。
うちの欲しかった「吉開学17歳(無職)」「第一実験室」「洗脳」「哀歌」「愁歌」「ACID VISION NEUROSIS」は学生にはもう高くて、給料入るまで無くならないでくれと何度願った事か、誰かに買われて絶望したりしたが入荷し最終的には全部買った。
次いで中古V系専門店「ピュアサウンド」が出来た、「大阪から来たんだって〜」と聞いたとおり西側のバンド、名古屋バンドや地下線に強い印象が当時はあった。
「クローゼットチャイルド」は一時期西新宿にビルの3フロアと別店舗も構えていたが縮小し洋服のみ取り扱っている店舗がある。「ピュアサウンド」も健在。

この4店舗を回る事を友達と「パトロール」と呼んでいた。
用例はこうだ「今日どこ集合する?」「会場限定だったCD欲しいかも」「じゃあパトロールしよ、CDの方のクロチャ集合で」「おけ〜」これで大体3時間は楽しかった。

プリ帳から、明治通りで車に轢かれても楽しい年頃
次の日病院行ったのを思い出した

ライブハウス「新宿ロフト」

良くライブハウス「新宿ロフト」に入り浸っていた。
新宿には他にも、「ロフトプラスワン」「新宿ANTIKNOCK」「新宿ウルガ」(2016年閉店)「新宿JAM」(2017年閉店、移転)「新宿RUIDO K4」(2020年閉店)「新宿MARZ」「新宿Marble」「新宿FNV」(現在営業自粛中)「新宿ケントス」、「新宿リキッドルーム」(2004年閉店、移転)に足を運んでいた。
新宿ケントス毛色違くない?と思われると思うが当時16歳のうちには60歳年上の友達がいて良く連れて行ってくれた、その友達は若い頃「カミナリ族」で色々な話を聞かせてくれた。新宿ケントスはお料理をつまみお酒を飲みながらオールドなR&Bやロックの生演奏を聞いたり、チークタイムが存在する箱だ。
因みにうちは中学生の時にアルコールアレルギーを発症したので未成年飲酒の心配は御座いません!今も昔もシラフで晩から朝まで酒の席にいます。
新宿にはこの他にもたくさんのライブハウスがあります。

「新宿ロフト」は歌舞伎町のど真ん中の地下2階にあるライブハウスであり、入場する時に並ぶビル内の階段には「暗黙のルール」を教えてくれるビラが貼ってある。書いてある事を要すると「土地柄騒ぐとこわい事が起こるかも!静かに並んでね!」という事が書いてあるので行った際には是非読んで欲しい。
1999年に小滝橋通りから歌舞伎町に移転したのだがこの話はロックバンドのライブに行くと複数のベロベロに酔っ払ったロック好きのおじさんから「そんな事も知らないの?君モグリだね」と耳が千切れる程聞かされたので覚えている、うるせー。
ライブハウスの構造はメインステージ、サブステージに分かれていて、バーカウンターとその奥の空間の段差の上にテーブルが3卓並んでいる、キャパは約500人。
「新宿ロフト」ではワンマン、対バンの他にバンド主催のイベントがあった。死ね死ね団主催のイベントと桜井青氏主催のイベント「心はいつもラムネ色」に5年程足繁く通った。
前記のイベントには殺害塩化ビニール系のバンドやV系バンド、白塗り、打ち込み、パンクロック、ハードロック、アングラサブカルと様々なバンドが出ていた。
後記は桜井青氏と関係のあったバンドや弾き語りユニット、ドラァグクイーンさんが出ていた。
2003年から高校生になりライブハウス入り浸り生活になるのだが一番大好きなバンド(通称:本命バンド)のcali≠gariがこの年の6月に無期限活動休止し密室系と呼ばれたムックのライブやlab.、プラスティクトゥリー、メトロノーム、グルグル映畫館のライブに良く行っていた。他にも楽しいライブがないかなと異種格闘対バンライブを見ていた頃、うちも寄稿している、変わった選挙事件やインディーズ候補などを紹介するサークル「にしんを食べると怒らない」の顧問井苅和斗志と出会う、井狩氏は高校生のうちに大きな段ボール3個分の戸川純、ゲルニカ、ヤプーズ、YMO、細野晴臣、坂本龍一、クラフトワーク等々のCDとLPと、発刊している全ての三島由紀夫の書籍をLP再生機器も添えてを実家宛に送ってくれた。これが今見ているバンドのルーツなのかぁと夢中で聞き読み漁り、ブラックコアを一瞬通って、P-MODELや有頂天、ナゴムレコードに辿り着く。
そして「新宿ゲバルト」というバンドにたどり着いたのが第二のバンギャ人生の始まりである。

V系バンドの中の「白塗り系」「ピコピコ系」バンド

メタルの中にも色んなメタルがあるように、V系も色々V系がある。
密室系、医療系、オサレ系、コテ系、ゴス系、コテオサ系、ソフビ系、名古屋系、白塗り系、ピコピコ系、白塗りピコピコ、イベントや事務所でも分かれていて地下線、スイトラ、KEY、P缶、と思い出せるだけ出してみたがもっとあった気がする、色々な呼び方で分かれていた。
その中でも表に語られる事がないがV系の中で大きなブームがあった、それが白塗りブームである。
通学中、有頂天の「SHEEL SHOCK」とRaphaelの「Evergreen」を交互に聴いていたうちだが三島由紀夫に影響を受け「新宿ゲバルト」というバンドを見つけたのだ。
取り敢えず戸田氏の出るライブを観てみたい。直近で開催される「新宿JAM」でのピノキヲ主催イベント「ネギま!」に行ってみたのが全ての始まりだった。
次に「新宿ゲバルト」のライブに足を運んだ。当時フロントマンの戸田宏武氏は三島由紀夫が結成した組織「楯の会」の制服のレプリカを着てライブをしていた、所謂白塗りピコピコ系と呼ばれたが「V系なんですが」と紹介するには勿体無い程素晴らしい音楽を作っている。
V系というジャンルが世間からあまり良くないと思われているのも分かっていて、このように言ってしまうのだが、見た目で聞かないって判断しないでねとお伝えしたい。
新宿ゲバルトのライブに最初に行ったのは2005年で、渋谷屋根裏で見たのを覚えている。
ライブを観た後、年上の関西から来ていたお客さん数名と仲良くなり飲みに行った、その時に「無恥鞭アナゴ」の魅力を教えてもらった。
「無恥鞭アナゴ」は人生(ZIN-SÄY!)のカバーやオリジナルの曲をオケを流して歌いながら踊る白塗りユニットなのだが色々なバンドからメンバーが集結していた。
「無恥鞭アナゴ」機械田→、TRANK-MAN、ケムール人を筆頭に「グルグル映畫館」から天野鳶丸氏(蜂山有実)、前田一知氏(大門)「新宿ゲバルト」から戸田宏武氏(ジャンボ戸田)、清水良行氏(いっつみー)「駄菓子菓子」から女樂氏(銀舎利一号)「メトロノーム」から小林写楽氏(ザザンボ)「大日本意識革命軍 狂暴」から藤銀次郎氏(ヒモカンポス)「ピノキヲ」からうゆに氏(ハムの人)「太平洋ベルト」から吉川昌利氏(ホッチKiss)という豪華なメンバーで構成されていた。
メンバーの都合により機械田→、TRANK-MAN、ケムール人、ハムの人以外のメンバーは誰がステージに上がるか本番まで分からない、たまに別のバンドのメンバーも参加したりと自由なユニットだった、全曲に振り付けがありお客さんと一体となって作るステージが魅力だった。
このメンバーのバンドと対バンを組む事が多く、それ以外でも別のバンドや箱のブッキングで白塗りバンドや打ち込み系のバンド、当時の色物系と呼ばれたバンドと対バンライブをするので、ライブをやる度お客さんがお客さんを呼びが倍々で動員が増えていった、白塗りバンドがライブするとライブハウスに客が入る時代が来た。
この頃は白塗り系、ピコピコ系、殺害系、と親和性のあるバンドが一緒に対バンする事も多く「空想革命」「イビルキック」「マモノ」「秘密結社コドモA」「犬神サーカス団」「SEX-ANDROID」「FLOPPY」「羅宇屋」「色妄」「毒殺テロリスト」「新沼GENJI」「遺伝子組換こども会」「アネモネ」「最鋭輝」「エレキ隊」「航空電子」「中国釣具店」「ADAPTER」「SUICIDE SQUAD」「アーバンギャルド」と数多くのバンドやユニットが盛り上がりを見せていた。
「空想革命」「イビルキック」「マモノ」はスリーマンで企画をする事が多くお笑い芸人の「宇宙海賊ゴー☆ジャス」さんがイベントを司会で回している事もあった。

客席から写真を撮ってると蜂山さんがカメラを取ってお客さんと撮ってくれた
後日焼増しして写ってるお客さんに配った

バンギャの「コスプレ」文化と白塗りコスプレイヤー

00年代、原宿駅のすぐ隣、表参道から明治神宮に行く「神宮橋(通称:橋)」には毎週土日になるとバンギャがひしめき合うくらい集まっていた、これを集会と呼んでいた。「日曜集会だから14時橋集合で」みたいに使った。
ゴシックロリィタのお洋服で着飾る人の人口よりV系バンドのコスプレをしている人のが圧倒的に多かった時もある、良く海外のジャパンカルチャーを紹介するTVクルーやカメラ小僧も沢山いた、路上演奏するバンドも居たが大体警察に届けを出していないので演奏10分やり切って撤収する感じだったのを観ていた。
V系バンドに「Psycho le Cému」というコスプレバンドと呼ばれたバンドが2002年にメジャーデビューした。コスプレバンドの元祖は「David 使徒:aL」というバンドだ、うちはデスピクニックと言う曲が好きだ、話が逸れた。
V系は非現実な世界観とステージ衣装がコスプレイヤーとの相性が良かったと思う、「Psycho le Cému」「MALICE MIZER」「メトロノーム」のコスプレは職人の腕が光っていて見事だった。
00年代は今のV系バンドと違い特注で衣装を作る若手バンドが殆どいなかった、オサレ系ブームもありファッションとしてもカジュアルで可愛いバンドが増えた、コテ系のエナメルで出来た衣装や黒いスーツなら既存のお洋服を購入しリメイクしたりも出来るのでお金のない学生バンギャさんもコスプレもしやすかったように思う。
竹下の入り口を入ってすぐ右側に入った所にある露店に「ガゼット」の赤反衣装が売っていて良くガゼットのコスプレをしている人を橋で見ていた。変形学生服でリーゼントがトレードマークの「氣志團」も01年後半から爆発的に売れ、ネオ・ヴィジュアル系ブームでV系バンドも続々メジャーデビューし衣装業者も安価でコスプレ衣装を作るようになっていたのは03年前後だと思う、コスプレが身近になってきた。
「ドレミ團」は「卓矢エンジェル」のお洋服を着ている時があった、売ってるけど当時のうちには高すぎて手が出せなかった。当時はコスプレをしたいと思えば特注品でない限りすぐ手に入り出来たのである。

ここで白塗りバンドのバンギャのコスプレ事情の話になるのだが、白塗り道具と衣装があれば出来るのだ、「無恥鞭アナゴ」と出会いうちも無事白塗りコスプレイヤーなっていく。
新宿の「サブナード」に舞台用化粧品「三善」(2020年閉店、新宿オカダヤ内に健在)が入っており、新宿「紀伊國屋ビル」の地下に舞台用化粧品「資生堂」(閉店)のお店があった。そこで白塗り道具を買い揃えた、後は衣装だ。
「グルグル映畫館」「新宿ゲバルト」「犬神サーカス團」、なんで白塗りバンドは学ラン着ている率が高いんだろうなぁ?と疑問を持ち「寺山修司」に辿り着く。
V系バンドのルーツは劇作家でもあった。そこから「田園に死す」を見て、天井桟敷、丸尾末広、飴屋法水をディグる日々も始まるのだが、学ランの疑問は解決された。
高円寺の古着屋で学ランとセーラー服を買う、これがうちの白塗りコスプレイヤーの第一歩であった。
「無恥鞭アナゴ」は色んなバンドのメンバーが集まっているのもあり白塗りコスプレイヤー密集率も高かった。コスプレイヤー同士仲良くなる事も多く北は北海道、南は福岡から20人前後の群れでライブハウスの一角で楽しく踊っていた。
メンバーのステージ衣装も途中から毎回のように変わる時期があり自分がコスプレしている本人は何を着ているのかガン見しながら白塗りで踊っていた。当時はライブの写真撮影も許可されていたので撮って現像に出してはコスプレ友達とヤフーオークション、ebay、古着屋さん等で衣装を調達し次のライブでは前回のライブ衣装を完コスして行っていた。
このコスプレイヤー執念は幕が開いた瞬間メンバーも怖かったと思う、当時はただ友達と大好きな白塗りバンドのコスプレをしてライブで踊るのが楽しかった、申し訳ございません本当に・・・、楽しい10代を過ごせた事に感謝しております。

「新宿ロフト」での「無恥鞭アナゴ」等白塗りバンドが出たイベントがあった、ソールドアウトしていた。
白塗りコスプレイヤーも沢山集まりバーカンの奥で撮影をしたり雑談をしていた。常に酔っ払いの飲兵衛の顔の白い友達が「ヨウちゃんビール買ってきて!自分の好きなもの買ってきていいから!」とお財布を持たせてくれた。
うちも白塗りでコスプレをしていたのだがその小道具として尿瓶を持っていた、勿論使っていないサラピンの尿瓶である。
バーカンのお兄さんに「すみません!ビールとオムライスください〜」と言うと「それに入れてあげるよ!」と尿瓶になみなみにビールを注いでくれた。
お互いゲラゲラ笑いながら「料金は一杯分でいいから楽しんでね!」と友達の所へ持ち帰り白塗りコスプレイヤーさんみんなで分け合って飲んでいたのを覚えている、律儀に各々お兄さんに、お礼がてらドリンクを買いに行った。
うちはご機嫌でオムライスを食べた、本当に学校もあまり行かず家にも帰らない自分にとってあたたかい場所だった。

尿瓶ビールをTRANK-MAN氏にも振る舞う様子
いつでもこの楽しい日を思い出せる

「白塗りバンド」を追いかけてたバンギャが絵描きになるまで

白塗り系バンドのコスプレをしている時に友達になった子と2人で創作ユニットを組んでいた、「新宿」を看板に掲げて白塗りセーラーで下駄を履いていた。
友達はデザインとカメラを担当し、うちはイラストとモデルを担当していた。
この頃にフォトショップの操作を覚えて、細密画のエログロナンセスと呼ばれるような漫画絵を描いていた。今、新宿のトー横広場と呼ばれる所で良く撮影をしていた。
この活動も2年ぐらいで解散になってしまったが、その後は1人で所謂バンドのファンアートサイトをやりながら20歳を迎えた。
自分が白塗りバンドをやるにあたりネット上から全て削除したのだが20代の10年間転々としたバンド活動もパッとしないで30歳を機に辞めた、今思えば芯を捉えられる程真面目ではなかった。一瞬の楽しさに人生を誤魔化せていれば良かったように思う。
絵は公募展や仕事の誘いが無ければ描く事はなかった、29歳の時友達と石垣島に旅行に行くのに那覇空港で飛行機の乗り換え待ちをしていた、すると前方から友達が歩いてきた。うちが15歳の時に「心はいつもラムネ色」で友達になったcali≠gari一筋のイツキさんだった。
「ヨウター!なんでいるの?!私社員旅行で来てるんだけど!」「うちは石垣島に旅行〜乗り換え待ちしてるの」「てかさ!cali≠gariがロゴコンペやってるよ!絶対ヨウタ出した方がいいよ!期限後1週間しかないから急げ!!じゃあ東京でね!」とイツキさんと写真を撮り別れた、うちはロゴコンペに出してみようかなぁと思い石垣島に泊まってるホテルで友達が寝てから夜な夜なロゴデザインをした。この旅行で石垣島の「カロライナの肉屋」でハヤシヒロヤス氏と知り合う。
東京に帰ってパソコンを立ち上げロゴを制作し、「14人のcali≠gariロゴ」コンペティションに送った。
30歳、仕事と家を失ったり、色々諦めかけている中「14人のcali≠gariロゴ」コンペティション石井賞を頂いた。ここからまた絵を描こうと思うようになった。
昨年のエッセイにも書いたが自分が幼少期どれだけ絵を描く事に救われたかを思い出す年であり、何もないんだから絵を描いて生きて死ぬ覚悟が出来た年だった。
石垣島と東京を行ったり来たりする生活が始まる、コロナ禍も始まる海外のOPENCALL参加も始める、取り敢えず絵と好きな事や人に夢中であった。
旅先で細密画を描くのは大変である、上質な紙に下書きをしてミリペンで仕上げる、汗で紙が濡れる、線もブレる、時間も掛かる。一発で描けば解決じゃん。
マッキーペンを買ってきて兎に角冷蔵庫やキューピーに描き始めた、衝動的で能動的な今の自分に合ってるなぁと思った。
こうして場所と時間を選ばないマッキー一発描き技法が爆誕したのであった。
処女作の詩画集を出版させて頂いた、このような絵を描いております。

自分の事を説明するのはとても難しい、1から10の中から読みやすい5を選んだりして誤解を生んだり伝えきれない事もある、ニュアンスだったりに悩む。
こうしてエッセイを書く機会も昨年頂いて、色んな方に出会いながら一つずつ目標をこなす、絵を描いている途中で御座います。
うちはV系の「文化」が大好きなので絵を描いて写真を撮って頂いて文章書いて着飾ってなんかやって。見るだけじゃなく色んな感覚を使って絵を楽しんで頂けるように「久喜ようた」としてやっていければなと思い活動しております。

ネオ・ヴィジュアル系ブームを振り返って、終わりに。

ネオ・ヴィジュアル系ブームの中でも白塗り系ピコピコ系のバンドの話をさせて頂きました。
資料が手元にある雑誌、フライヤー、グッズ、写真、音源しかなくネットで検索してもあまり引っかからないので裏が取れず省いた話もあり、白塗りバンドやライブハウスも1つずつもっと細かく説明出来ればと思ったのですが長くなりすぎたので省きました。
一緒にいた友達の中だけで呼んでいたもの、話していた事もあると思いますので細かい部分が間違っていたら申し訳ないです。
約20年前の事を思い出しながら書くのは楽しかったです、V系バンドシーンは2008年頃までしか追ってなく、どんどんV系の中でもマイナーな方へ興味が向いていきましたから「私の知ってるネオ・ヴィジュアル系ブームじゃない」となった方もいらっしゃると思います。
こういうネオ・ヴィジュアル系ブームも存在していたんだなぁと1人のバンギャの体験記として読んで頂けると幸いです。V系バンドの事を書くのは最初で最後だと思います、最後まで読んで頂き有難うございます。
こういう座談会をゆるくしたいな。と言ってみる。

久喜ようた。

全ての思い出が詰まったプリ帳を久しぶりに開いて


石垣島で本当にあった豚のカレーのエッセイ、発売中です。


この記事が参加している募集

一度は行きたいあの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?