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「キモチがよいことは良いことだ」という価値観を大切にしたい

 この投稿はかなり炎上しそうですが、ここ数年常に感じていることです。

 高樹沙耶さんが有罪判決を受けました。法を犯しているのでしょうがないと思います。違法なことを行えば罰せられる。これが法治国家です。「大麻は悪いことばかりではない。大麻は使い方によっては人に恩恵をもたらす」というメッセージと基本関係なく、違法行為をしたら罰せられます。同様に、医師の違法な過剰労働を見過ごしているのは違法行為です。「法よりも倫理の方が上」とか「患者のために頑張ることを法が規制してはいけない」とかいうことは自由ですが、そのメッセージにどんな正当性があったにせよ、違法行為を罰する、ということについて社会は譲るべきではありません。

 そして、その前提でタイトルに話を戻すと、「法を犯したこと」と「悪いことをしたこと」は必ずしも同一ではありません。それは、長い歴史が物語っていることです。ガリレオなど、昔「思想犯」でとっつかまっていた人たちの結構多くは今や主流の考えを持っているような人たちです。私たちは「法を犯して罰せられた人」の行為が社会を騒がせたとき、一度「罰せられるのは当然として、その行為は悪いことなのか?」ということについて一度立ち止まる癖をつけたほうがいいのかもしれません。

 私は、高樹沙耶さんに「こういってほしかった」という個人的な感想があります(炎上的感想です)。それは、「大麻の医療目的での使用を認めてほしい」ということではなく、「とても気持ちがよく、さらに害が少ない大麻の、悦楽使用を目的とした合法化を進めたい」といってほしかったのです(炎上的感想です)。これは、高樹さんの本意ではないのかもしれませんが、昔の高樹さんのスタンスはむしろこちら側だったと思います。なんだか、政治色が強くなってきてから医療が合法化の目的のための手段として使われてしまったようなもやもや感を持っていました。ちなみに、私は大麻の医療目的での使用に関する合法化におおむね賛成です。そして、大麻の悦楽目的の使用に関する合法化についても(あんまり勉強していないですが)多分賛成です。その意見の背景には、「キモチの良いことは良いことで、つらいことは悪いことだ」という自分の価値観があります。

 私は「高樹沙耶バッシング」「中川バッシング(不倫行為バッシング)」「喫煙者差別」そして「いじめ」、これらには共通した闇があると解釈しています。それは、「気持ちのいいことをしている奴を外的な圧力でつぶしてやりたい」という社会の願望です。そこには、「キモチの良いことは良いことだ」という価値観を認めながらも、「それを認めてしまうと今の自分がイケていない」ことを認めてしまうために、「そもそもキモチの良いことは良いことだ、という価値観を実践している奴をつぶしてしまい、『キモチの良いことはよいことだ』という倫理観をこの世から否定してやろう」というゆがんだ感情を読み取ってしまいます。それが、「高樹沙耶バッシング」「中川バッシング(不倫行為バッシング)」「喫煙者差別」そして「いじめ」を生み出す仕組みの根幹にあるのだと思っています。

 たとえば、「不倫」という言葉には、悪いイメージしかありません。辞書で調べると「 不倫 = 配偶者でない者との男女関係」のようですので、もはや事実に価値ががっつり挿入されています。配偶者以外の異性と性的なお付き合いをすることはきっと幸せと不幸せの両方を生みます。そして、多くの場合その差し引きは不幸せの方が大きいと思います。だから「配偶者でない者との男女関係の多くは倫理的ではない」のです。一方、小説「愛に時間を」の主人公で私の尊敬するラザルスロングは配偶者以外の異性を一杯愛しちゃっています。そして、この小説は幸せであふれています。つまりは、世の「倫理的でない」とされる意見や行為について、その行為の意味を考えず一律に「けしからん」とするのではなく、その行為が「不幸せ」を最小にして「幸せ」を最大にすることになっているのか、ということについて立ち止まってみるべきではないか、というのが私の意見です。

 皆さんが懸念する通り、「キモチの良いことは良いことだ」ということを肯定するには副作用があります。「自分にとってキモチの良いことは、自分以外のものにとってつらいこと」であることが多いからです。例えば、私が鶏の水炊きに舌鼓を打っているとき、私は「おいしいものを食べている」という快楽を得ています。その快楽のために、その鶏は殺されます。当たり前ですが。そして、ただ殺されるならいいのですが、多くの鶏たちは食べられるために生まれ、無理やり餌を食べさせられ、そして殺されるのです。私の悦楽は、そういうものの犠牲の上に成り立っています。配偶者以外の異性とお付き合いすることもその人にとっては悦楽的な経験になるはずです。しかし、それによって悲しみ傷つく人がいます。そして、その悲しみや傷は、悦楽よりもしばしばずっと大きなものです。だからこそ、「はたして、私は鶏をこれからも食べ続けるべきか?」とか、「はたして、私はこの素敵な女性とこれからも関係を続けるべきか?」ということを考える必要があるのです。

 実はこのようなことは毎日のあらゆる行為において発生しています。人間が行うすべての一つ一つの行動は「キモチがよいことは良いことで、苦痛を得ることはよくないことだ」という原則を大切にしながら、「このときのこの行いは自分にとっては気持ちがよいが、他者にとっては苦痛かもしれない。ではどうする?」の問いとともに行われるものなのです。だから、一つ一つ考える必要があるのです。

 ところが、「大麻を使用する」とか、「タバコを吸う」とか「配偶者以外の異性とSEXする」とかは、行為としてラベルが明確についていてわかりやすいのです。どういうラベルかというと「お前は悦楽を得ただろ!?」という行為ラベルです。そしてそれイコール「お前の悦楽によって、大きく不幸がばらまかれたぞ。責任とれ!」という単純な責めの構造に移ってしまうのです。これが「大麻・タバコ・エッチ」を「悪行為」として断罪していく仕組みです。では、いじめはなぜ起きるのでしょうか?おそらくいじめる側にとって、いじめることが楽しいからです。これは悦楽です。そして、「いじめる側」の悦楽のために「いじめられる側」は大きな悲しみをこうむることになります。いじめは、行為としてわかりにくいのです。「これはいじめではなく試練を与えているに過ぎない」とか「親密なコミュニケーションの一部」と行為をすり替えることが可能です。そして、「キモチの良いことは良いことだ」という前提をあえて否定することによって「自分は彼をいじめる動機がそもそもない」という言い訳をすることができます。

 今の社会は「キモチの良いことは良いことだ」ということを完全否定する方向に向かっている気がするのです。「キモチがよいことは良いことだ」という価値観を否定することは、「苦痛が続くことはよくないことだ」という価値観の否定とも強くつながっていると私は考えます。 これは緩和ケアの領域ではしばしば批判されている「がまん」の美徳化ですね。もう一つ重要なことは、「キモチの良いことは良いことだ」ということを完全否定することは、「本当はキモチがよいけれども、キモチがいいといってはいけないあいまいな残虐な行為」を取り締まりにくくしてしまう、ということです。これは、極東アジアでしばしばいわれる「人に迷惑をかけてはいけない」という倫理観ともつながります。明確にラベルの付く「キモチのよさそうな」行為を行ったものを「罪深い人間」「倫理から外れた人間」として特別扱いしてしまうことは、自分自身の日常行為がもたらす罪深さから目を背けようとすることだと私は感じます。それよりは、自分もキモチよく、他者を可能な限り蹂躙せず、もし可能なら他者や社会にもこのキモチのよさが伝搬するような生活を目指すことが「倫理的な行為」なのかを私は考えます。

 「生きているだけで人にも鶏にもバクテリアにも迷惑をかけているんだから、その分みんなが幸せになることをふるまっていこう」という感じでしょうか?とりあえずすぐ「けしからん」とか「許せない」とかに行かないようにしたいものです。

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