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<書評>『隣人X』(パリュスあや子)※ネタバレあり

購入後、即読了した。高揚感とともに本を閉じながら、これは売れるだろう、と思う。

『隣人X』は小説現代長編新人賞を受賞したパリュスあや子の長編処女作。著者には歌人、脚本家としてのキャリアがあるとはいえ、長編小説はこれが初めてだそうだ。まじか。

読者にストレスを感じさせることなくフィクションの湖へ音もなく着水させてしまう序盤から、最後まで読み終えずして本を手放せなくなる終盤までの淀みない展開。登場人物たちのそこに「生きている」ことを感じさせる誠実で繊細な描写。そしてなんといってもさまざまな現社会への違和感、問題意識をひとつの物語に自然に、かつ効果的に反映させる力は、とても新人のそれとは思えない。

著者はたくさん思考(≒言葉)が血肉となり、カラダの中に充満している人なのではと思う。それらが小説表現という出口を見つけ、勢いよく吐き出され、「新人賞」という恩恵を受け、そのまま読者の手元に届く。処女作(という言い方は本当にどうなんだろう、なにか他に良い呼び方あるかな…)というオンリーな体験は、読者にとって、まぎれもない幸運である。

本書のあらすじは以下のとおり。

(講談社/小説現代長編新人賞WEBサイトより引用)

202X年、惑星難民Ⅹの受け入れが世界的に認められつつあるなか、日本においても「惑星難民受け入れ法案」が可決された。惑星Ⅹの内紛により宇宙を漂っていた「惑星生物Ⅹ」は、対象物の見た目から考え方、言語まで、スキャンするように取り込むことが可能な無色透明の単細胞生物。アメリカでは、スキャン後に人型となった惑星生物Ⅹのことを「惑星難民Ⅹ」という名称に統一し、受け入れることを宣言する。日本政府も同様に、日本人型となった「惑星難民Ⅹ」を受け入れ、マイナンバーを授与し、日本国籍を持つ日本人として社会に溶け込ませることを発表した。郊外に住む、新卒派遣として大手企業に勤務する土留紗央、就職氷河期世代でコンビニと宝くじ売り場のかけもちバイトで暮らす柏木良子、来日二年目で大学進学を目指すベトナム人留学生グエン・チー・リエン。境遇の異なる三人は、難民受け入れが発表される社会で、ゆるやかに交差していく。
 ある日、ハリウッド映画でなじみのある超人気俳優が「惑星難民Ⅹ」であると告白し全世界が揺れる。日本では「惑星難民Ⅹ」探しの報道が過熱し、平凡に暮らしていた良子の父、紀彦が「惑星難民Ⅹ」だと疑われ、週刊誌で書き立てられる。紀彦は生中継で噂を否定し、狂乱を静める。そして秘密裏に週刊誌記者である笹の家に赴き「惑星難民Ⅹ」の真実を伝える。その真実とは……。

この物語の主人公は3人の女性だ。彼女たちは「惑星難民X」の受け入れに揺れる同時代(作中では202X年とされているから、2020年の今かもしれないし、ほんのちょっと先の未来かもしれない)の日本の、ほぼ同じ生活圏で生活している。彼女たちの年齢、バックグラウンドはさまざまだ。物語は、それぞれの物語が交互に語られつつ、ゆるやかに進行する。彼女たちはそれぞれ間接的に、そしてときに自覚をもって直接的に関わり合いながら、そして多いに迷いながらも、自分自身の確かな足どりで歩んでいく。

いろんな見方ができると思うけれど、わたしは今の気分として、この作品をフェミニズム小説として読んだ。カテゴライズにどれほど意味があるか分からない。けれど、個人的な関心事であることを除外しても、「SFを読みたい」という気分よりも、シスターフッドをより確かなものとして感じたいとか、「弱き者」をエンパワーしてくれるものを読みたいとか、そういう気分にこそ応える作品になってるように思う。

作中では、主人公の3人は社会的弱者であるがゆえの、理不尽な仕打ちの被害者として描かれる。新卒派遣社員の土留紗央は泥酔した自分を助けてくれた男性に暴力を振るわれそうになる。フリーターの柏木良子はキャバクラの客に殴られた過去を持ち、さらにはアルバイト先の宝くじ売り場で年配の男性から理不尽に罵られる。ベトナム人留学生のリエンはアルバイトをしているコンビニの店長や、居酒屋の客から侮辱の言葉を浴びせられる。

「女性だから」「外国人だから」「隙があったから」それをしてOKなのだという、差別や人権軽視を認めている社会構造に起因する認知の歪みから起こっていることの数々…。それらはあまりにも日常的に、この社会にはびこり巣喰っている病だ。認知自体が歪んているので、社会構造の問題に目を向けることができず、「自己責任」と糾弾することで差別は再び容認され、難なく再生産され続ける。

悔しい。苦々しい。あまりにも苦い現状だ。

だけれど、彼女たちの(そして読者であるわたしの)認知もまた、歪みを避けては通れない。社会から影響を受け始めた幼少の頃から現在に至るまで、着々と、そして時には強い衝撃を伴って(そしておそらくほとんど無自覚に)それは歪まされ続けてきた。

だから、理不尽に対して怒りを感じても、「自分にももしかしたら非があったのではないか?」と疑ってしまう。怒ることに制御がかかる。モヤモヤしたまま、その気持ちを自分の心にだけとどめておく。でも、本当は、わたしたちはブチ切れていい。泣きわめいてもいい。なのに、それは簡単にはできない。社会が、そして自分かそれを許さない。

これは柏木良子の章からの引用だ。

意見を主張できる女性は偉い。強い。しかし良子は自分がくだらない、弱い人間であると諦めていた。同じ女性というカテゴリにも様々な人間がいるのだと言いたい。自分のような人間が、ささやかに、ひっそりと、物言わず生きることを赦してほしい。

フェミニズムを抗議運動として考えるなら、この良子の考え方はその理想からは程遠いものかもしれない。しかし、この『隣人X』はこのような良子の考え方にしっかり寄り添う。良子は肯定される。

と同時に、良子が「弱い人間」なんかじゃない、ということを確かな筆致で念入りに証明していく。そうすることで彼女たちを守ろうとしているようにさえ感じる。そこにこの作品の、作家の持つ、大きな愛がある。そこからは、作者から、3人の「彼女」たちへのシスターフッド(マザーフッドではなく)をひしひしと感じる。

作中にこんな描写がある。

(要約)同じコンビニでアルバイトをしている良子とリエン。同じシフトで入ると、良子は「ナイショね」と言って、廃棄に回される食べ物を少しだけ持ち帰り、リエンにも分けてくれている。良子がアルバイトをしばらく休むことになったとき、リエンは別の人とシフトを組み、同じように食べ物を持ち帰る。リエンは良子が好んでよく持ち帰るあんぱんとネギ味噌おにぎりを持って帰り、ネギ味噌おにぎりって案外おいしいな、などと思う。(余談:坂元裕二さんのドラマを彷彿とさせる描写/著者の脚本家的な視点が生きているように思います)

何気ない描写だと思う。しかし、こういう日常の中にこそ、誰かへの想いは託される。誰もそうとは気づかないような「気づき」にこそ愛は宿る。良子の不在を良子の好きなおにぎりがそこにあることで感じる。良子の好物の味を知る。そこにあるシスターフッドを確かに感じた私の心は震えた。

『隣人X』で描かれるのは、惑星難民X絡みを除けば、あまりにもありふれた日常だ。でもだからこそ、免れられない闘いがある。私たちの日常は「認知の歪み」との闘いだ。それは自分自身との闘いでもある。時間がかかる。でも、だからこそ、闘う意味がある。

怒れない。勇気が出ない。何も考えたくない。それでも、そんな私たちにも(だからこそ、と言いたい)、小さくも確かな、頼りなくも緩まない連帯があるのだとこの作品は教えてくれる。私たちはここから始めよう。ここから、でしかないのだと思う。

最後にタイトルについて。

『隣人X』のXは作中で「テン」(数字の10)と読むことが示唆されているが、Xは代数のXという意味も持つ。あなたの隣人は実は惑星からやってきたXかもしれないし、もうすぐそばにいるあなたのことを心配してくれている誰かさんXかもしれない。そしてあなた自身は誰かの隣人Xでもある。

隣人があなたにとって誰なのか、何の意味を持つのか…それはあなた自身がそれに気づくかどうかが決めるのだ。ネギ味噌おにぎりを食べながら、想うこと。気づくこと。それは、極めてささやかな、しかし確かな「反抗」に他ならない。

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