ビヨン酢

【なんだか笑いたいあなたへ】週一(火曜)更新予定 ビヨン酢 石川県 | ローカルタレ…

ビヨン酢

【なんだか笑いたいあなたへ】週一(火曜)更新予定 ビヨン酢 石川県 | ローカルタレント 家族構成 父よーじ・母ケイコ・姉(6歳上)・わたし ビンボーでも楽しかった。 どこにでもあるようでない日常うんぬん。

最近の記事

えびふらい

ちょっと思い出したことがあって急に書きたくなった。 むかしの話。 私の住んでいた町には割烹はあったけど今ほど気軽に入れるようなお店はなかった。 店舗数もすくなく、どこかへ外食するってことは車がない自転車一家にはハードルが高いものだった。 なので私の幼少期はいろんな食べ物の味レパートリーは少なかった。 焼肉屋さんデビューは正直17歳の頃だったと思う。 隣の街にあったファミレスもバイトをしてからのデビューだったので16歳頃。 マックも16歳の頃かもしれない…。あ、でも、モス

    • 羽咋のおじーが死んだ

      羽咋のおじーが死んだ。 直接的な関係は無いし、血縁関係もない。 言えば他人。 でも行けば いつも家の前でウロウロ待っていてくれた。 楽しみにしてたんやろ?とかいうと んなことあるか!少し外出て運動してただけや とそっぽ向いて家の中にはよ入れと言ってくれる。 別の時は 鎌持って待ってて、別に待ってなんかない草むしってたんやと手が綺麗で元々お庭も綺麗なのにそんなことを言ってくれる。 家は少し傾いていて廊下は坂になっている。 前の地震で沈んだ。 それでも住んでいる。

      • 御供田ばーちゃんと孫のビヨン酢

        ナンマンダブツ…ナンマンダブツ。あんさん息災やったかいね? 御供田幸子さんをご存知でしょうか? 真っ白の化粧をして 方言を使いながら 日常のことを面白おかしくコントをする石川県のスターを。 御供田さんのステージが開催されるとなるとあれよあれよと人が集まり会場いっぱい満員御礼がほとんどである。 高齢の方からの絶大な人気。 会えば泣いて喜ぶ人もいる大スターである。 約80歳にして舞踊にコントに歌謡までこなしていくスーパーな方。 梅沢富美男さんを師として教えてもらい石川県で

        • 父のクセが強かった。~知らん女がおった話~

          うちの父は【クセが強い】。 最後の最後までクセの塊だった。 ちょいちょい父の話はしてきてはいたけど、深堀り?しては無かったので想像がつきにくかったのでは無いかと思う。 そこで 私が飽き飽きするまで親父のことを書こうとおもう。 多分本人もネタにされるのは嫌いじゃない。そういう性格だったと思う。そんな遺伝子が私にもあるもの。← さて。物好きなそこのあなたにお届けしますね(笑) 【知らん女がおった話】 私が17歳ぐらいの頃の話。 テレビではアッシーやらメッシーやら貢ぎくん

        えびふらい

          バレンタインデーのほろ苦さフェア

          2月のこの頃になると毎度毎度思い出す過去のバレンタインデー。 恋に恋してたような 意味もわかってないような みんなあげるから私も誰かにあげたい!みたいな そんな頃、時代が皆さんにも……ありません?笑 小学校の時なんて手づくりなんてのは板チョコ溶かして固めてアザラン?とかチョコペンとかでデコるだけなんだけど、その頃なんて100均なんて無いし、モール?と呼ばれる型も無いしカップに入れるだけとかね?可愛いカップとかなら隣町のジャスコまでいけばあるんだけど、我が家にはそういうの買

          バレンタインデーのほろ苦さフェア

          風呂は我が家の歌教室

          私は母と中2ぐらいまで一緒にお風呂に入っていた。 一応季節限定。 寂しいとか怖いとかじゃなくて、冬に風呂を沸かすとすぐに冷めるのと、お風呂の湯の量が半分で肩まで浸かれるので同時に入る方が効率が何かと良かった。 1番風呂は 姉。姉は昔から長湯ができないのでそれは見事な行水であった。 姉が湯船から上がって頭を洗い終えたら でかい声で 「ビヨ!!!フローー!!!!」と呼ばれる。 平成の時代ではあったがうちの家は昭和生まれ。 その当時の多分?良さ?が詰め込まれた家だった。

          風呂は我が家の歌教室

          銭湯日和

          昔の自宅のお風呂はエコキュートなんてものはなく、ボイラーで湯を沸かしていたものだ。 我が家に外にはボイラー用の給油タンクがついてた。 しかしこのシステムは非常に脆かったと思う。 私が保育園のころにはボイラーが壊れて水しか出なくなることもしばしば。 夏なら水風呂でもまぁ凌げるが、冬は極寒だ。 オマケに今の浴槽ほどの保温効果もありゃしない。タイルというかコンクリの風呂場で冷たいのなんの。 体を温めに行ったはずなのに底冷えしてしまうくらいの場所であった。 冬に壊れたら

          ⚫⚫こ いるか?

          近所にいつも優しくしてくれるおばあちゃんが居る。 わたしが引っ越したさいに挨拶へお伺いした時に 『あんた!よぉみる顔や!ビヨン酢そっくりやねぇ~!』と声をかけていただいてからお友達になった。 晴れた日はよく外に出て庭をいじっている。 なので犬の散歩で会うと必ず声をかけて下さり、他愛もない話をするのが日課であった。 男ばかりの家族だったそうで女の子がいたらこんな感じなのかなぁと毎回言うのであった。 ときに、作った野菜をくれたり ときに、ご近所のおばあちゃんたちに私を紹介

          ⚫⚫こ いるか?

          うちの父はクセが強い~お弁当~

          うちの父は【クセが強い】。 最後の最後までクセの塊だった。 ちょいちょい父の話はしてきてはいたけど、深堀り?しては無かったので想像がつきにくかったのでは無いかと思う。 そこで 私が飽き飽きするまで親父のことを書こうとおもう。 多分本人もネタにされるのは嫌いじゃない。そういう性格だったと思う。そんな遺伝子が私にもあるもの。← さて。物好きなそこのあなたにお届けしますね(笑) 【お弁当のクセが強い話】 私は姉と6歳離れている。 なので唯一の同時行事を見られるのが小学校

          うちの父はクセが強い~お弁当~

          父と母の話

          うちの家族は仲が悪かったです。 父と母は常に怒鳴りあいの喧嘩をしていました。 2人で出かけたり家族で旅行なんてありません。 休みが被ると必ずどこかへどちらかが出かけてなるべく会わないようにしてました。 何度か父が離婚してもいいんやぞと言っていたことがありましたが母はそんな事言わないでと言っていて。その時その場にいた私が母の謝る姿をみて泣いて別れないでとよくも分からずに嫌がった記憶があります。 母だって本当は離婚、別居をしたがってはいたと思います。ただ子供二人を連れての生活

          父と母の話

          母のこと~さいごまで~

          非常口の案内板と弱い明かりだけが灯る薄暗い廊下で動けない私を別の看護師さんが見つけて 「こっちに座ろうか、おいでね?」と私を促してくれた。 エレベーターのすぐそばの淡いグリーンの合皮のソファー。 薄暗いけど、正面はナースセンター。 煌々と明るくてそこだけがある意味…異質に見えた。 看護師さんが「みんなに連絡できた?」と聞いたので「姉とは連絡が取れなくて。」と伝えた。 「メールも入れておいた方がいいよ。」と。 私は言われるがまま やり取りがずっと前で久しぶりの姉のアドレス

          母のこと~さいごまで~

          母のこと~初めてのお泊まり最後のお泊まり~

          余命宣告をうけたけども もうここ最近ずっとこんな感じの母の姿が当たり前になっていた。三寒四温みたいな?そんなきせつのような母の体調であった。 そして、日々抗がん剤やモルヒネを使って頑張ってくれた。 1ヶ月がすぎて 2ヶ月が過ぎて 余命宣告の3ヶ月がすぎた たしかに母はよく眠るようになっていたし、何も食べられなくなっていたけど、起きている時もあり、話すことも出来る。 私は前のような苦しそうな母を見る機会が少なくなっていたので余命宣告なんて大袈裟なこと言うのねと思って

          母のこと~初めてのお泊まり最後のお泊まり~

          嬉しいこともさみしいことも

          誕生日を迎えて あーわたしも家族や親戚など、みんなのあとを着実に追いかけてるなぁとしみじみ。 ビヨン酢になって 歳を重ねるごとに増えてく 嬉しい言葉。 幸せ( ´˘` )本当に幸せ者やなぁと思う。 見えとるかな?おかあさんおとうさん どう?自慢の娘になってるかな? あなたふたりの娘は本当に大きくなりましたよ! この歳になると子育てをしてる人も多くて みんないつまで 子育てせんなんかなあと言うけど、きっと親は死ぬまで親なんやと思う。ずっとずっと子供って甘えたいもんや

          嬉しいこともさみしいことも

          土瓶蒸し

          わたしは18歳頃で初めて土瓶蒸しという食べ物を食べた。それは会食会でのことだった。この時期ならではのご馳走してやるというなかなか気前のいい知り合いがいたのだ。 土瓶蒸しは急須のようないれもん。蓋の上にスダチがのっている。その蓋がおちょこのようになっているものもあり、すだちを急須に絞ったら注ぎ口からまずはだし汁からすする。なかなか洒落た食べ物だと思う。 和の何重にも重なるカツオベースの優しいお出汁。 ふわりとすだちのコロンが香る。 具材の持ってる旨味が溶けだしていて思わず喉が

          むすんでひらいて

          赤い毛糸のあやとり。 ケバケバになっても大切にとっておいた宝物。 1人で何度もあやとり橋に箒それからゴムをやり込んでいた。 しかし、1人でもできるけど誰かと無限にするあやとりがしてみたかった。 でも、あやとりを学校に持っていっても もうあやとりするお年頃じゃなかった。 だからわたしはケバケバのあやとりをはっちゃんばあちゃんとやる。 ずっとずっとつづく 川。 あんな川やこんな川それから橋になってまた川になる。 縁側に座って 川!川!といってやり取りする。 そう

          むすんでひらいて

          母のこと~姉と私の覚悟の差~

          ちょっとまえだけど、石川県のとある大学のとある研究でがん細胞を消滅させる細胞を見つけることが出来たそうだ。そんな論文を発表した。 いつかきっと、癌で亡くなられる方がもっと減る病気になるのかもしれない。 …… …… …… 母の余命宣告を受けて私は実感がわかないでいた。 たしかに顔色も黄疸が出ていたけど、つい最近まで帰宅していろいろしていたし、普通に話せていた。 3ヶ月ってもっとギリギリなことを言うのじゃないのか。 寝たきりで酸素マスクで心電図みたいなのつけて……。 母

          母のこと~姉と私の覚悟の差~