【短編小説】祖父とビールと卵かけご飯

 私の出身は、私が生まれる数年前に閉山した鉱山で、幼いころに死んだ祖父は鉱夫をしていたそうだ。
 母に聞くところによると、祖父はなかなかの酒豪であったそうで、酔っ払ってはまだ3歳くらいの幼い私を担いで、「二人で銭湯に行ってくる!」と車に乗ろうとし、家族総出で引き留めるというような賑やかな人だったらしい。

 覚えていない。

 むしろ、無口な人であったような気すらしている。というのも、唯一ある祖父との記憶で、彼は一言も喋らないのである。
 暑い夏の日。
 実家の家は台所に裏戸があり、表の庭から家に沿った小道をぐるりと通ると、台所側に出られる。「走る」を覚えた私は、その日も庭や家の裏を元気に遊びまわり、そして、台所の裏戸から、中に入った。
 台所に、祖父がいた。
 コップには、泡の消えたビール。
 祖父は、卵かけご飯を食べていた。
 米は実家の田んぼで収穫し、家の隣に建てられた離れで精米される。卵は隣家が養鶏をしており、朝の採れたてだ。
 誘われるように、祖父のもとへ行くと、優しい顔をして、
 無言で、
 一口くれたのだ。
 どんな味がしたのか、覚えていない。きっと美味しかったのだろうと思う。そして祖父はごつごつした手でコップをとって、グイとビールを飲んだ。年老いてなお力強い、浅黒く焼けた働く人の手の形をしていた。

 あの夏の日から幾日経った秋の夜に、祖父は交通事故で亡くなった。
 「死ぬ」ということは、まだ私には分からなかった。

 梅雨寒をぬけて、令和の夏が来ようとしている。
 あの時、私が欲しかったのは、真夏の太陽の下で遊びまわり、汗をかいたカラカラの体を潤す、冷えた「その黄色いの飲みもん」だった。
 あの時は、意地悪をされたのかと悲しんだ。
 あなたのあの目の優しさを、素直に信じればよかった。

 祖父よ、私はいま、
 あなたが大好きだったビールで、
 私に与えてくれなかったビールで、
 あの夏に乾杯します。

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