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『マチネの終わりに』

 言葉だけで、恋愛は可能なのか?ーそんなことを最近よく考える。例えば学校で隣の席の○○くん、とか、職場の○○さん、の存在感や心のつながり度は相対的に希薄になってきていて、メール(少なくとも相手の正体は分かっている)ならまだしも、本名を伏せたニックネームなどでやり取りするこのご時世において、言葉の持つ力とか、文章力が肉体的な魅力を凌駕するほどの威力を持ってはいないだろうか。

 人間の魅力は究極的には精神的なものだと私は考えているし、そこは私にとって迷いはないのだけど、この本を読んでいて、言葉を過信することの怖さ、メールでしか連絡の取れないことの怖さ、一度手を離してしまったら二度と会えないという現実について、考えさせられました。

 家族でいることは、一度手を離してしまったとしても、まだ挽回させてもらえる余地がたびたび訪れることを許されている関係性で、例えお互い誤解が生じたとしても、仲直りするという機会が訪れることが多い(はず。)

 友人関係も、彼氏彼女という関係も、ここに近いと思う。

 でも原則としては、どんな関係性であっても、心の信頼を得るという点では常に人間関係は一期一会であり、一度失った信頼関係を取り戻すのはとても難しい。

 この小説の中でミュージシャンの蒔野はジャーナリストの洋子と出会い、二人は急速に惹かれあっていく。

 しかし、お互い世界のあっちこっちにいて、社会的責任も重く、おまけに戦争やら災害やらあって、、、携帯電話一つでしか繋がっていない人間関係って、なんて脆いのだろう、と感じた。

 ある程度の時間をかけて知り合ったのならば、メール以外にもSNSとか複数のアクセス可能な電話番号とか、伝え合う時間もあるはずだけど、出会ったばかりでは致し方ない。

 こんなに「お似合い」で、相思相愛の二人でも、うまくいかない時はうまくいかないのだな、と、運命のいたずらに対して憤りたくもなる。

 恋愛感情だったり、友情だったり、家族の愛情だったり、当たり前に持っている時はその大切さに気づかず、ぞんざいに扱ってしまうこともあるかもしれない。

 私たちは生きていて、常に新しい感情と出会い、眠り、老いていく。

 人の心を縛り付けておくことはできないし、したくもない。

 愛情というのは、毎日花のように育てるもの、という言葉を聞いたことがある。

 好きな人と一緒にいると自然と笑顔が増え、楽しみが増え、思い出が増える。

 そんな毎日を積み重ねていけることが、尊いことなのだ。

 しかし、蒔野と洋子には美しい思い出がある。

 それが救いだし、年を経てもお互いのことを良い感情を持って思いやれるというそのことが、二人の人格によるものだと感じる。

 美しい思い出もいいし、平凡な日常もいい。

 ないものねだりをしてしまいがちだけど、大切に思えたり、尊敬できる存在が心の中にある、ということだけでも、感謝できることなのかもしれない。

 著者の平野啓一郎は大学生の時のデビュー作『日蝕』で芥川賞を受賞。この『日蝕』も読んだが難しすぎて、この後私はこの作者からは遠ざかっていた。友人に薦められたのがきっかけで、この本と著者に再び出会うことができた。

 アマゾンの著者紹介によると、「文化交流使」として1年パリに留学していたり、日経新聞のアートレビュー欄を8年担当するなど、経歴が煌びやか。

 この人だけでなく、小説家って、デビューしたばかりの頃は荒削りで、個性的なんだけど、大御所になっていくに従ってどんどん他の大御所達と同じような「作家」と一括りにしたくなるような、いい意味で個性を超越した存在になっている気がする。

 でも、この人の小説には美的センス以上に職人魂も感じる。

 ちなみに映画も見に行った。原作が先だとがっかりすることが多いけど、石田ゆり子好きな私にはとても良かった。原作の雰囲気が大きくは壊れなかった。

 現在はプライムビデオで視聴できます。

『マチネの終わりに』平野啓一郎著 毎日新聞出版 2016年

『マチネの終わりに』西谷弘監督、福山雅治、石田ゆり子出演、フジテレビムービー 2019年

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