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正しくあろうとしてください

コロナが大流行した2020年度。その春の入学生であった志賀ももう三年生。
三年生になってからはほとんどの授業は対面化して、三年目になって毎日キャンパスに通うようになった最近である。

対面になった授業が多くなってきた中、稀とも言えるオンライン授業の一つ。「多様性社会」と一言で言える世の中の中で起こっている問題や当事者の声を突き詰めて、生々しく考える授業。その授業はオンラインだというのに、対面以上に圧がある。

「君達も三年生なのだから、感想とか理想論でリアぺを埋めるのはやめましょう」

「わかった気になってフィーリングで物を書くのをやめましょう」

怖いのだ。刺さる。もう少し甘やかしてほしいと思ってしまう瞬間も多々ある。教授がどちらも実にシビアに分析してくる。

志賀は自分で言うのもなんだけど、結構厳しい現実を生きて(生き抜いて)きたタイプの人間なので、ちょっとやそっとではびびりはしないし、揺らぐこともないけれど、そんじょそこらの愛らしさで今まで何でも許されてきたお嬢様みたいな人達には厳しすぎる授業だと思う。所謂「楽単」という概念からは圧倒的に極地にある。単位が欲しいだけなんだったら、絶対に他の授業を取ったほうがいい。90分の授業の負担があまりにも重すぎると思うから。

でも、この授業は僕にとってとても大切な授業だ。寝てられないし、さぼる事も出来ないけれど(そんな隙は与えてくれない。そんなことをしようものなら死に至る)それでも、実に学びは多い。

そんな授業で先日、中間のまとめの授業があって、いつも以上に手厳しく先生方が私達学生にたくさんのことを問いかけた。こっちとしては疲労困憊、勘弁してくれという感じだった。大分ぼろぼろだ。

でも、その授業の終わり、先生がこんなことを言った。

「税金を納め、こうやって働いている『大人』の僕等は、これらの問題について、まだ正しい答えを出せていません。これは本当に恥ずべきことで、責任を負わなくてはいけないところだと思います。しかしながら、だからこそ、皆さんに願います。正しい…、いや、正しくあろうとする答えを考えて下さい。正しくあることではなく、あろうとする答えをこれからの社会を作る皆さんが作っていってください」

この人は私達に期待をしてくれているのだ、と思った。この人は私達学生を「大人」として、「人間」として、対等に扱ってくれているのだと気づいた。厳しいけれど、耳の痛いこともいうけれど、正直甘やかしても欲しいけれど、でも、向き合ってくれていると分かった。

『正しさ』というのは難しい。正しいか、正しくないかの二元論だと絶望にしかなり得ない。個人的な感覚の話をすれば、「正しくあれ」と言われたら「無茶言うな!!」と盛大に怒鳴り返すだろう。人は感情がある。正しさというのはある種の規制だ。そんな簡単なことじゃない。

でも、先生は「正しくあろうとしてください」といった。「あろう」としろ、と。

僕等は正しくはなれない。それはもう無理なのだ。聖書(志賀はミッション系の出身なので、なじみが深い)では「義人はいない。一人もいない」と言っているし、つまり「正しい人など一人もいない」のだ。だけれども、そうあろうとすることは出来る。なれないかもしれないけれど、なれない僕等はある種とても『みじめ』なのだけれども、それでも、未来を描いて、正しくあろうとすることは出来る。それは僕等の意志のあり方だからだ。

どうあるべきか、どうありたいか、実際にそうなれるかは置いておいて、それを考える価値はあり、希望がある。

「正しくあろうとする答えを」と言う先生を尊敬する。
僕等に自分達の現状について語ったその言葉の重みを受け取った。だからこそ、僕等もその言葉に応えたいと思う。

正しくはなれない僕は、正しくあろうとこの世界をどうにかこうにか生きるのだ。
僕等も「大人」として、この世界に生きる「人間」として、少しでもよりよい未来を創り出すために。

僕の、あなたの、僕等の大切な人が生きるこの社会が少しでもより良いものとなりますように。どうか、この世界と、世界の中にある希望を信じて、今日も祝福あれ。

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