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ずっと、好きだった。

「学校は社会の縮図だ」とはよく言ったものだ。社会に出て何年も経つけれど、その通りだと思う。ある程度の人数が揃えばそこにいろんなタイプの人がいて、その中には自分と気が合う人、気が合わない人、何か好きだなと遠巻きに見る人、とまあ、いろんなタイプの人で構成されている。学校ってその中で揉まれながら、生き抜く術を学ぶ場所だと思っている。そういう「社会の縮小版」の学校で、「究極の社会の縮図」これが部活動なのではないかと思う。

私は、部活動のことを思い出すと、心がチクリと痛む。中学時代、私は運動部に所属していた。好きで始めたのだけれど、顧問の暴言、体育会系の上下関係を求められる感じに反発心を覚え、次第に部活動が嫌いになっていった。特に顧問が大嫌いだった。

当時の私は、感受性が強く、その使いこなし方を知らなかった。人の感情の動きに敏感で、小さい自分を大きく見せようとする大人のずるい嘘と、権力を武器とした子供に対する嫌がらせを目の前に、私の中の無防備な正義感は、見逃しを許さなかった。だけど、戦い方を知らない子供が(表向き)勝てるわけがなく、惨敗した。心の底から「大人になんてなりたくない」って思った。

この経験から、面倒くさくなった私は、本音で話すことをやめ、自分と他人との間に境界線を引いて他人と接するようになった。どうしても気持ちを抑えきれない時はノートに書き出す。自分しか見ないノートの中でなら、本音を表現できたから。

その後、高校、大学生活を通し、安心して話せる友人が沢山でき、楽しい日々を送ることが出来た。けれども、いつも心の中に「何か」が残っていて、時々、燻っては私を悩ませた。部活動の経験を盾にして、大切なことから目を逸らしているような……それが何なのかはわからなかったのだけれど。

ーーー

それから随分と時は巡った数年ほど前、妙に心惹かれて参加した心理学の講座で、全ての謎が解けたんだ。先生の話はとても興味深く、講義後に質問をしに行った流れで、私は悩みを打ち明けた。「自分と他人の間に境界線があって、その境界線から外に出られない」ってそんなような話をした気がする。そうしたら、先生は私の瞳の奥をまっすぐに見ながらこう言った。

「人が好きなんですよね?」

……一瞬、面食い、「苦手だから困っているんです」と思った。けれど、反射的に出た言葉は、「はい」。答えた瞬間、涙が止まらなくなった。「本音だ」とわかったからだ。

どうでもいいことに、人は悩まない。どうでもよくないから、悩む。私が引っかかり続けてきたものは、「人」だった。

感受性に悩んだから、心に興味を持った。
揺れる心を知りたくて、文章を書き始めた。
文章を書いたから、自分を知った。
自分を知ったから、人のことも知りたいと思った。
人に悩み続けたから、自分の本当の気持ちに気が付くことができた。

何だか、オセロみたい。石の黒い面がネガティブな経験で、白い面がポジティブな経験だとしたら、真っ黒の盤上を真っ白に変えるのは、きっと捉え方次第なんだな。

「こうだったから、できない」ではなく、「こうだったから、できる、今の自分がある」、そう思えたのならば、それは、かけがえのない経験に変わったしるしだ。

私、人が好きなの。

編集:アカ ヨシロウ
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