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違うということに対して不慣れな社会で

よく買い物をするお店でレジをしている中年男性がいる。
見た目は、単刀直入にいうと「オッサン」であるし、声も普通に「オッサン」なのだけれど、「いらっしゃいませぇ~」「〇〇なのぉ~」とオネエ言葉でしゃべられる方なのである。

ものすごいレジ打ちも早いし、的確だし、おそらく仕事っぷりは優秀な方なのだとお見受けする。

数回その方のレジで会計をしたことがあるのだけれど、世間話なんかをあちらからどんどんしてくるのだ。
それに対して、なんというか・・・うまく対応できない自分がいる。

ただ単にレジをし、こちらもお金を払って終わりならいいのだけれど、その方のサービス精神が旺盛なのか、絶対に話しかけられ、その内容にどう返したらいいのか本当にわからなくてこちらがもじもじしてしまう。

だからほかにレジが空いていたら、そちらに回ってしまう。

なんだかほかのレジ打ちのおばちゃん達と区別してしまっていると思い、良くないことだなあと思うのだけれど、どうもその方のレジの列に並ぼうという勇気が持てないでいる・・・。

今やLGBTという言葉があり、またテレビドラマや漫画などでも取り上げられるようになってきている。
また何らかの身体や精神の障害に対しても、オープンにして世間の理解を広めようとされる方も昔よりは多くなってきている。

以前に比べたら、世間の反応や対応に関しても、以前よりかはマイルドになってきているように感じる。

いろいろな人と仲良くしてみたい、違うということに対して過敏にならず、いろいろなものの見方や価値観を理解したい。
私は心からそう思っている。
けれども、長いこと我々は「同じであること」「ふつうであること」という教育を受けて刷り込まれてきたのである(その同じ、普通という尺度も今となってはとても画一的であり、抽象的であり、正しいとも思えないのだけれど)。
急に、はい、これからは「みんなちがってみんないい」ですから、仲良くしていきましょう!と放り込まれても、どうしたらいいのかわからない。

長年嵌められてきた型を、どうやぶればいいのか。
私がその中年男性の方を気にしすぎなのだろうか・・・。

***

買い物に行くたびにもやもやしていた。
そしてずっとどうしたらいいのか考えてみた。

(世間や教育のせいばかりにするのも一向に解決しないのであるが、)「みんなちがってみんないい」を声高に叫ぶのであれば、少なくとも、小さな社会である学校でまずは実践できるようにしてみてはどうか。

特別視しないで、ひとりひとりの特徴の延長として。

そういう取り組みは、たとえば自身がLGBTやなんらかの障害を持っていなかったとしても、ひいては自分がもっと世間でいうところの「普通」でありたい、こうでなければならないという呪いから解き放たれ、どんな人であってももっと生きやすくすることができないだろうか。

でも、他力本願では変わらない。
まず自分がやってみないと、周りも変えられないだろうから。

こうやってnoteを書いたのだから、これを機会に今度から例の中年男性のレジに並んでみようと思う。
世間話をされても、過剰に反応せず、そういう方なのだと思って接してみようと思う。

普通ってなんだ?
同じってなんだ?
普通や同じであることは大切なことなのか。

頭でわかっていながら、身体の方がついていっていない状況を、あえて意識をすることで変えていきたい。

考えて頭の中でシミュレーションばかりしていないで動いてみようと思う。

またレジに並んで会話したらレポします。

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