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『人生論ノート』 ー習慣についてー

先週#わたしの習慣という記事を書きましたが、三木清も人生論ノートの中で、習慣についてという断章を書いています。もちろん三木清が自身の習慣について書いているのではないくて、そもそも「習慣」とはなんぞやということを論じています。すべてを紹介は出来ませんが、ここでは、印象に残ったパラグラフをいくつかかいつまんで取り上げてみたいと思います。

経験の反覆ということは習慣の本質の説明にとってつねに不十分である。石はたとい百万遍同じ方向に同じ速度で投げられたにしてもそのために習慣を得ることがない、習慣は生命の内的な傾向に属している。

人生論ノート「習慣について」

習慣というのは、ただ同じ動作を無為に何遍も繰り返す行為ではなくて、何かの意思を持って行うことだと言うことを「石はたとい百万遍同じ方向に同じ速度で投げられたにしてもそのために習慣を得ることがない」と面白い表現で言っています。

習慣を自由になし得る者は人生において多くのことをし得る。習慣は技術的なものである故に自由にすることができる。(中略)習慣が技術であるように、すべての技術は習慣的になることによって真に技術であることができる。どのような天才も習慣によるのでなければ何事も成就じょうじゅし得ない。

人生論ノート「習慣について」

「徳は活動である。」とか「幸福は表現的なものである」という三木にとって、活動や表現のために行為や作法を身につけ、自在に操れる技術を獲得する習慣は重要なものだと考えていたと思います。

イチロー選手は選手時代、食事を含め毎日ほぼ変わらないルーチーンをもっていたと記憶しています。そのような習慣がイチロー選手の大記録を支えていたことは、論を待たないでしょう。どのような天才も習慣によらなければ何事も成就しないという言葉は、天才は習慣化できる技術について卓越していると言い換えられるかもしれません。

習慣によって我々は自由になると共に習慣によって我々は束縛される。しかし習慣において恐るべきものは、それが我々を束縛することであるよりも、習慣のうちにデカダンスが含まれることである。

人生論ノート「習慣について」

デカダンスというのは退廃という意味です。何かの目的があって習慣をおこなうときそれは意味のあるものですが、何の目的もなく行っているのであれば、それは惰性というものであります。よく陥りがちですが。そのよなデカダンスに陥らないために、習慣はいつでもその目的を問い続ける必要があります。

また、三木はこの断章で「社会的習慣としての慣習が道徳」である、と言っています。道徳も他者に対する思いやりなどが目的のあるうちは、それは善いことですが、ただ儀式的に形骸化し、そして強制させるようなものであればそれは注意すべきものであると言っているのだと感じました。

参考


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