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『着物を着る価値』が上昇していく理由

 本記事では「わざわざ着物を着るということ」について書いていきます。具体的には、「今後、『着物を着る』という価値は増していく」と仮定し、根拠となる推論を列挙し、そこから現代社会であえて着物を着ることについて思考を深めていく試みになります。

 さきに断っておきますと、よく述べられている『伝統、職人技、愛国心、上品に見られる』などといった、さもメリットに聞こえるように曖昧な要素を羅列して、着物を着る動機付けを図る内容にはしていません。そんなシャンプーだかボディソープだかわかんないようなものについては書きません。わたしが考え続けていたものを、着物で暮らしている経験から、ファッションの流れから、社会の潮流や書籍から、そんな様々な学びで補強して、推測という形でつらつらと書いていく作業になります。

 みなさんに着物をおすすめするという点では、よくある着物サイトと変わりありません。ただ、別の視点、切り口で着物を見てもらうきっかけになるのではないかと、かすかな期待を胸に、せっせと記事をこしらえていきます。

「節子、それ記事ちゃう。パン生地や」

 先に結論だけお伝えしておきましょう。

 様々な要因から着物の需要は増していくことが予想されるため、今のうちから着慣れておいた方が先々お得です。


はじめに

 わたしの暮らしにミニマリズムと着物を取り入れて、もう何年も経ちました。とはいえ、大好きなファッションは今も追いかけ続けていますし、新たに投資、資産形成についての勉強も始めました。

 「ミニマリストなのにわざわざ着物を着ているのはなぜか」、「ファッションは不要なものと切り捨てるべきなのか」、「どのようなものが投資となりうるのか」。日々暮らしていく中で、ミニマリストであるが故に生じる、こんな思考と暮らしの摩擦。こんなことを悶々と考えながら過ごしているのが、今この文字をしたためている筆者です。なんだか、改めて文字にすると、めんどくさそうなやつですね…。

 そんな悶々とした「着物を着ること」についての疑問、悩み、葛藤のようなものは、できれば早く解決したいのがミニマリストの性というものです。そうしてインターネットで色々と検索をかけてみても、見つかるのは「伝統」「美しさ」「日本人に似合う衣服」「褒められる」といった、資本主義に根差した宣伝文句ばかり。ただ着物を買って欲しい企業が考えた言葉は、なんだか冷たくて、よそよそしいのです。人の内面に目を向けた、着物を着る背景や世界観といったものを知りたい、という思いばかりが募る日々でした。

 そんなことを悩み、答えを探し続けてきた筆者は最近、『近い将来、着物を着ることに注目が集まるのではないか』『今のうちに着物を始めて、先行者利益を確保すべきだ』と考えるようになりました(もちろん、ただぼんやりとおぼろげな印象であって、こんな言葉たちがはっきりと思い浮かんだわけじゃありません)。果たしてこの考えが正しいのか、そして需要があるのかは不明です。ただ、わたしと同じような疑問、悩みを持った方に、ひとつの参考資料として刺さると信じ、筆を取った次第です。

 では、着物とその将来的な価値について、つらつらと述べていこうと思います。

着物の現状

 ミニマリストな私は、無駄を削った合理的な生き方を目指す一方で、わざわざ着物を着て丁寧に暮らすことを心掛けてもいます。着物生活は、もう6年目になりますかね。そんな、消費者のいち意見、というよりただの肌感では、現在の着物産業にはわくわくしない、という印象があります。

 決して、衰退しているわけではないと思います。吉田羊さんを始め、たくさんの著名人が着物を愛好していると公言し、着物のファッションショーのようなイベントも開催され、レンタル着物もバリエーションが増え、着物の作り手も様々な新しい提案を始めています。ですが、着物ユーザーの私がうきうきわくわくすることは少ないのです。これが、着物業界への正直な気持ちなのです。

 UNIQLOが有名デザイナーとコラボしたとか、リニューアルした商業施設にメゾンマルジェラが入ったとか、有名な香水に似た香りのプチプラ香水がSNSで話題になって売り切れた、みたいなことは、着物関連では起きていないのです。「ちょっと見に行ってみようかな」「手に取ってみようかな」とわくわくできるニュースって、着物だとごくまれです。アイドルが正月や夏に着物を着ただけでニュースになるくらいには、着物は珍しい『色もの』というポジションにとどまっています。

 着物という衣服には十分すぎる程に魅力があります(本日は触れずにおきます)が、それが十分に浸透していません。「着物を着たい」という動機付けが、正月などのイベントくらいでしかできない。これが、着物の現状です。

着物を着る人は増えていく

 わたしは着物愛好家ですので、着物という衣服はいたく気に入っています。しかし、贔屓目に見ても活動性は低いし、西洋文化にどっぷり浸かったこの国で、わざわざ着物を手に取る労力はかけないのが普通だと思います。そもそもどうやって着るのかすら分からないという人がほとんでしょう。

 その一方で、初詣には着物を、成人式には振袖を、大学卒業に出席する時は袴姿、夏祭りには浴衣を着る人が、なんとまぁ多いことか。京都などの古き良き街並みが残る観光地域ではレンタル着物屋が軒を連ね、旅館ではパジャマを横目に、こぞってみんなが浴衣を着ています。

 普段はぜんぜん見かけないのに、要所でかならず出てくる着物。もう日本では廃れてしまったとは到底思えず、むしろ日本社会にしっかり浸透しているようにすら感じます。ただ、『国の伝統衣装だから』という理由だけでここまで残っているとは考えにくい。レンタル着物などは、衰退するどころか発展している様子さえあれば。なおさらです。

 そんな、やや下火な着物業界ですらしっかり社会に浸透しているのですから、「今後盛り上がることなどありえない」と考える方が無理のある話だと感じるようになってきました。いま『盛り上がる』と簡単に言いましたが、これはなにも希望的観測から適当にのたまったわけではありません。今後、着物を着る人が増えていくだろうと私が推測した根拠をいくつか挙げていきましょう。

日本の亜熱帯化

 この文章を執筆している8月下旬は、暦の上では秋分です。しかし、冷房をオフにするなんてことは考えられない暑さは、衰える様子がまったくない。日本ってもう南国ですよね・・・。今後、さらなる熱帯化が起きれば、まるで中東のような、砂漠の民が着るような衣服がもとめられるようになる可能性もあります。


 わたしは以前、ドバイに旅行に行ったことがあります。事前に調べた情報のなかで、「陽射しが強すぎるから日中は外に出るな」、「陽射しから守るために肌は露出するな」という警句が何度も出てきました。実際に訪れたドバイは、言葉通りの陽射しの強さ。長袖長ズボンを着て行った私は、「情報化社会に生まれてよかった~」と何度も思いました。砂漠の国ドバイは、空気はからっとしているので蒸し暑さはなく、むしろ肌を布で覆った方が涼しいのです。

 日本が今後もっと暑くなることは予想できますが、ドバイのように長袖長ズボンなんて真似はできません。なぜなら蒸し暑いから!肌をぴったり覆ったら、熱中症で倒れてしまいます。陽射しは強く、気温も高く、空気がじめっとしている日本では、肌を覆い隠せて、肌に張り付かず、そして通気性のよい衣服が求められるようになっていくでしょう。それこそ中東の民族衣装なんてよさそうです。

 とはいえ、そんな衣服を着るのは現実的ではありません。悪目立ちしてしますし、そもそも入手方法や着方も分かりません。

 「あ”~。どっかに、肌を覆い隠しつつ、夏に涼しく着れて、街中で着てても変じゃなくて、入手しやすい服なんてないかな~」と思ったそこのあなた。安心してください。ありますよ。

 着物は、全身をたっぷりとした布で覆い肌を隠せますし、ゆったりしているので肌には張り付かず、さらに袖口が大きく開いているので風が通りやすい。日本人みんなが見慣れた衣服で、買おうと思えば古着屋やオンラインだけでなく、地元のイオンでも買えます。

 日本が熱帯と化した日にゃ、中東の人々みたいに皆が着物を着るようになるのかな。なんて、まだまだ暑い初秋に考えてしまいます。

情報化社会

 インターネットが子供から高齢者にまで普及し、人工知能をアプリで気軽に扱えるようになったこの情報化社会。そんな中で、少し前から頭のいい人が手を出し始めたのがメタバース。これも、着物を着る人が増える理由になりえると感じています。

メタバースとは、仮想現実と現実世界が融合したデジタル空間を指します。ユーザーが自分のバーチャルアバターを通じて他者と意思疎通をしたり、アクティビティを行うことのできる場所だそうです(ChatGTPに教えてもらいました)。

 このメタバース上では、その世界の通貨が存在し、その空間の土地を実際に売り買いするような不動産投資ができたり、自分のアバターに着せるためのファッションアイテムも売り買いすることができるようです。

 「メタバースなんてよく分からないものがなんだってんだい!あたいには関係ないよ」という方もおられるでしょう。しかし、機械音痴の私が人工知能を利用するようになったように、有限の現実世界ではなくメタバース内で過ごすということに違和感を感じない方が増えていく未来も考えられます。夏でも汗をかかずに出かけられるし、会いたい人には実際の距離など関係なく会うこともできる。普通に都合がいいですもん、メタバース。

 そうすると、実際に人と会うのはメタバース空間の中で、ということになりますから、衣服を身につけるのはアバターで、着る衣服もデジタルでデザインされた架空のものになります。

 そこで生まれるのが、『衣服の特別性』です。わざわざ生身に衣服を着るという機会が減ることで、かえって衣服を特別視する価値観が生じる可能性があります。SNSで世界中の綺麗な景色が見られるようになり、定額料金で好きなだけ映画や音楽を楽しめる現代において、旅行・宿泊・コンサート鑑賞といった、あえて生身で取り組む『実体験』は、贅沢なものになってきています。この感覚は、みなさんもお持ちではないでしょうか。それと同じことが、衣服でも起きるのではないかと、私は考えています。


 『衣服の特別性』を希求する時、人はどのようなものを着たくなるのでしょう。突き詰めれば、他者と差別化できる服を着たいと思うはずです。(主にメタバース内で活動している自分が)せっかくお出掛けするのに、せっかく生身の体に衣服を着せるのに、普通のものを着たいとは思わないですよね。友人の結婚式で衣装被りを避けたいというのと同じくらい、自然な感覚です。

 ほかの人と差別化するなら、デザイナーズブラントやハイブランドの服を着るのが手っ取り早いです。または、個性的なコーディネートや、イカした小物のチョイスなど、センスで他の人と差別化するのもありです。

 「そんな高い服は買えないし、ファッションセンスもないから人と差別化なんてできないよ。あ”∼。どっかに、着るだけで他の人と差別化できて、センスなくてもお洒落になれて、そんなに高くない服、落ちてないかな~」と思っているそこのあなた。安心してください。落ちてはいませんが、ありますよ。

 着物は着ている人が少ない割に社会全体に浸透していると前述しました。つまり、着たら差別化できるわりに、入手は簡単だということです。どうでしょう。着物を着る人、じわじわと増えていく気がしてきませんか?

アイデンティティの希薄化

 電車に乗れば、美しさを追求する広告が目に入る。SNSでは、みんなこぞって何かしらの肩書を名乗る。ネットの海をサーフィンすれば、より高い収入こそが正義だと声高に誰かが叫んでる。そんな社会では、誰もが「自分は何者か」意識せざるを得ない環境にいます。

 ファッションセンスや学歴、特殊技能、SNSのフォロワー数。はたまた、友人の数や得意なスポーツがあること、みたいな小学生じみたもの。これらがまるで、自分のアイデンティティを補強する道具であるように感じてしまう。そうしてみんな、補強材はひとつでも多い方がいいと、そんな要素を必死で探し集めているように見えます(私も、ミニマリストであるとか着物を着ているとか、そんな肩書きをつけてしまうのです…)。われわれのアイデンティティが希薄化した結果だと、私は思ってしまうのです。

 「僕は○○商事の主任なんだ」と誇る様子は、もはや昔のドラマでしかお目にかかれない、ある種のノスタルジーを感じさせるふるまいですよね。こんな風に勤め先の会社などの、いわゆる社会的地位そのものに自身を重ね、アイデンティティを担保することは、昨今できなくなってきています。終身雇用が破綻し、転職・副業が当たり前になった現在の社会で、仕事は『ゆるぎないアイデンティティの拠り所』にはなりえなくなってしまったからです。そのため、真夜中の荒れ狂う海で帰るべき灯台の灯りを見失ったかのように、または死神という落語の主人公が蝋燭の灯に対して思ったように、自分自身のアイデンティティの曖昧さに不安を感じる人がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

 ところで、近年では身軽な生き方としてノマドワーカーやミニマリスト、海外移住者のような肩書きが流行っていますよね。場所や時間に囚われず、働きたい分だけ働く、自分らしい軽やかで柔軟な生き方は、なんとも魅力的です。そして、この身軽な肩書きが流行していることが『仕事がアイデンティティにならなくなった』ことと無関係とは思えません。ノマドワーカーやミニマリストなどは本来、星の数ほどある生き方のうちのひとつに過ぎないはずです。しかし、この一派の声は日に日に大きくなっていっているなぁと感じています。これまで光の当たらなかったものに注目が集まっているというより、みんながそれに憧れ飛びつき、競って名乗っているかのようです。流行の生き方という船にさえ乗っていれば、自動的にアイデンティティの確立という港にたどり着けると信じて疑わないのです。

 アイデンティティが希薄になっていまうと、他にも不都合なことが起こりえます。身近なところに目をやってみましょう。分かりやすいのは、やっぱりSNSでしょうか。着ている服や旅行先の景色。作った料理や素敵な外食。自室のお洒落なインテリアや、エッセイのような長文。そんな投稿のどれもが、「自分の生き方、考え方に多くの賛同がほしい」「自分というアイデンティティを保証する反応がほしい」と喉から出そうな手を画面越しに感じ取れてしまうようなものばかりです。いくらかは、影響力を強めたいというビジネスなユーザーでしょうが、そんな方達も『いいね』の数をアイデンティティの補強に使っているように見えてしまいます。

 こんな風に、生き方そのものが流行に左右されたり、暮らしをSNSで見世物にすることは、こうして文字で表現すると生きづらそうです。そして、そんな窮屈さを感じながらアイデンティティを確立しようと頑張る人は、今後も増えていくと考えられます。その時、寄りかかるには頼りない仕事やSNSではなく、どっしり安定した『なにか』にアイデンティティを依存したくなったとき、『着物』に注目が集まるのではないか、と私は思うのです。国の伝統衣装、というゆるぎない要素をまとうわけですから、「自分は何者なのか」なんて不安は解消されます。

 アイデンティティを自分の生まれた国に求めるのは自然なことですから、この予想もただの戯言ではないと思いたい。着物を着ることが普通になるという可能性は、決して0ではないはずなのです。

SNS映え

 『情報化社会』や『アイデンティティ』についての文中でも触れましたが、人々はSNSで承認欲求を満たしたいと思ってしまうもので、私もそうです。工夫したコーディネートの写真を投稿して、他者からのいいねを待つ。もらえた反応の大きさが、そのまま自分の努力に対する評価尺度だと錯覚する。

 そうなると、反応をもらいやすい服を着たくなるのは自然な流れ。そして、どんなものが反応を得やすいかと言えば、特徴的なブランドものや、そのまんまブランドロゴがでかでかと刻印されたようなもの。そして、判で押したような流行のコーデ。決して、実際に見て触って選んだ、その人の美意識を体現したような衣服の調和ではなく、SNS映えする服を載せただけのコーデがもてはやされる日々

 インターネットを利用したインフルエンサービジネスはますます増えていくでしょうから、SNS映えを意識した投稿も過熱していくでしょう。そうなれば、他の人と差別化を図るのも難しくなっていく。そんな、参加者が極端に多い勝ち目のない競争の中で、「ハイブランドを買うお金はないし、ファッションコーディネートや言葉選びのセンスも自信なし。だけど個性的で写真映えした格好を投稿したい」という需要は高まっていくことが予想されます。そこでみんなが見出すのが?そう、着物です。

 ハイブランドのロゴと同じくらい、着物という『記号』は目立ちます。特徴的なデザイナーズブランドのアイテムと同様に、着物という独特な形のファッションアイテムは目を惹きます。洋服はどんどん関税やら材料費やらで価格が高騰していますが、着物ならば国産で非課税ですし、シルクではなく木綿の着物ならば値段も安く、古着屋にも手頃な価格でたくさんの着物が眠っている。SNS映えしないと悩む民が、着物に手を伸ばす。そんな未来が想像できませんか?

哲学からの視点

 今後、着物を着る人が増えていくと私が考える理由の最後の1つ。それは、哲学の視点からの気づきになります。

 なんだか小難しい話になってきたなの思った方はご安心ください。ただカッコつけたくて、それっぽく言っただけです

 わたしは、着物を普段着にして6年目になりますが、ずっと疑問に感じていました。「なぜ、着物は消えることなく現代まで生き残っているのだろう」と。街を歩けばちらほらと着物姿は見かけます。夏祭りや初詣、茶道、観光と理由は様々でしょうが、そこから言えることは、『着物は日本の生活に、今なお馴染んでいる』ということ。

 未来のない衰退産業と呼ばれ、一人じゃ着れないし動きづらい(実際はそんなこともないのですが・・・)なんてイメージがあるにも関わらず、諸外国の伝統衣装のように「コスチューム」として辛うじて残るわけでもなく、生活の中に着物はある。また、近年は京都などのレンタル着物も盛況らしく、現代らしくアップデートされたもの(フリル着物やお洒落なもの)が人気な様子。

 なぜ着物は、現代社会の我々の暮らしに馴染んでいるのでしょうか。

 この疑問が氷解したのはつい最近のこと。とある哲学についての本を読んだのです。そこで語られていたエピソードのひとつに、こんなものがありました。

 『教育の在り方は見直されつつある。同じ年齢の子供を集めて教科ごとに画一的に詰め込んでいく従来のスタイルよりも、年齢問わず個人の能力に合わせて柔軟に教育内容やレベルを変化させるスタイルの方が優れている』。これが、近年の教育先進国の見解です。教育に関してやや遅れをとっている日本からすると、かなり革新的なシステムに感じられますが、著者はこのシステムを、江戸時代の寺子屋と似通った教育スタイルなのではないか、と述べています。そして、著者はこのように続けています。

つまり、近代の教育システムに慣れ親しんでいる私たちから見ると、大変「新しい」ように見えるものが、実は長い時間軸で考えてみると、「古い」ものだということです。ただし「古い」ものが「古い」まま復活したのでは、単なる後退ということになってしまいます。この時、古いシステムは、なんらかの発展的要素を含んで回帰してくる。

武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50/山口周著


 つまり、古いものは発展して回帰してくると著者は述べています。教育先進国が考えている革新的な教育システムは、江戸時代の寺子屋に似ているかもしれませんが、何かしらの発展的要素を含む、つまりアップデートされたものだということです。また著者は、長い時間軸の中で発展と復活を繰り返すことを『螺旋状に、立体的に進んでいく』とも表現しています。

 日本はギネス記録に載っている通り、世界一歴史の長い国家であり、その2600年余りの時間軸の中で、着物は螺旋状に発展と復活をし続けてきたはずです。昭和から徐々に需要が減っていった着物が、平成、令和と少しずつ盛り上がりを見せているのは、その螺旋状の流れの中で今まさに発展して回帰してきているからなのではないでしょうか。


 また、着物に注目が集まりつつあるとこれまで語ってきましたが、ただ古いものが取り上げられるのではなく、何かしら発展した形で脚光を浴びていくのではないか、と本書を読み、一層そう考えるようになりました。

 その一例として、俳優で着物愛好家としても有名な吉田羊さんが主催する着物イベントについて触れたいと思います(そのイベントに先立ち、吉田羊さんご自身がスタイリングし、モデルも務めた着物の写真集も出版されています。とてもお美しいのです・・・)。吉田羊さんは特にアンティーク着物を愛好しているそうですが、この写真集も、開催されるイベントも、決して「和」や「伝統」は打ち出していません。着物をファッションとして楽しみ、着物らしさを愛で、洋服と組み合わせてお洒落したりなどなど、着物は自由で楽しいという雰囲気がにじみ出ています。

 これまで和装業界が打ち出していた『伝統技法』や『お淑やかな大和撫子』などとは遠く離れた文脈で、ファッションを楽しむ選択肢のうちの一つとして着物もあるんだよ~、と提案していく流れは、今後も大きくなっていくでしょう。伝統技法それだけを売りにするのではなく(まあファッションなら当然なのですが)、その技法から生まれる魅力を活かした『ファッションとしての着物』を提案するブランドもあります(Y.&SONSKAPUKIは、一度サイトを覗く価値ありです)。

 どうでしょう。着物が発展し回帰しつつあるというのが、大げさな話というわけでもないと思えてきませんでしょうか。

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