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身体感覚から考える~わかるの違い

わかるの違い


あたまで知る、わかる、理解することと

からだで知る、わかる、理解すること。

違いは、何でしょうか。


まねぶ


学ぶの語源は『真似ぶ』とも言われます。

考えてみると、誰しも、

親や他者の行動を真似るところから

学びは始まったのではないでしょうか。

くちびるを読んで、形を真似、音を真似る。

何度も何度も、反復をして、

今では立派に悪態をつけるようにまでなった。(笑)


肌に馴染む感覚、腑に落ちる感覚


知識が身につくには、それなりの時間が要ります。

『40を過ぎたら自分の顔には、責任を持て』

なんてことを、昔どこかで見聞きした憶えがあります。

責任とは何ぞや?は、さておき、

どう責任を持つのやら、と思ったものですが、

それまでの人生の結果としての表情があると思うと、

その言葉が意味するところがわかる気がします。

年月を重ねた分、例えば、

眉間の皺の胡散臭さにも、年季が、、

いやいや、

味があるね、なんてことがでてくる。

ものは言いようです。(笑)


身体をつかう愉しさ


ぼく自身、20歳を過ぎてアメリカへ渡ったころは、

英語を話す人の唇の動きをひたすら読みました。

そして、本気で伝えたいことは自然に、

身振り手振りも交えて、表現してみる。

ある意味、毎日が必死でした。

今、思い出してみたところで気づきましたが、

まるでもう一度、赤ちゃんからやり直しているようで、

成長過程を日々実感できる経験でした。

(3年で15歳になった感じですかね)

楽しい記憶です。


身体を伴う学びは、なんと言いますか、

それ自体が、悦びを伴うものなのかもしれませんね。

他方で、どうでもよいことは、いまだに、

さっぱり身につきません。


わかったつもりは、つまらない


これから先、情報処理はAIに任せとけばよいでしょう。

演算能力では、到底敵いません。既に、実証済みです。

あたりまえですが、ぼくらの身体は、生身の自然です。

知った(つもりの)情報では、割り切れない存在です。


身震いするような感動を伴う経験、

言葉にしえない感情をともなう経験、

花鳥風月を感じるこころ。

自らの思惑をはるかに超えている日常に、

ぼくらは生きています。


今後、割り切れるものがより鮮明に、緻密に、

表される世界になるにつれ、

割り切れないものは割り切れないものとしての魅力を

より際立たせることになるでしょう。


言い換えれば、

過去、現在、未来の区別が

つきやすくなるのではないでしょうか。

無論、ぼくらは今を、生きています。


身体を学ぶ愉しさを、生活そのものに


時がどのように移り変わろうが、

環境がどうあろうが、

じぶん自身が何に意識を向けるか、

その結果は確実に、じぶん自身に反映されます。

と、同時に、そのじぶん自身の在り方は、

時の流れや環境へも、影響を与えている。


皆さんと学んでいる体癖の分類法が、

単なる知識情報の枠内にとどまるのか、

自身の感覚経験に基づく経験知となるか。

そこには、大きな違いがありそうです。



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