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身体感覚から考える~足指とおしゃべりする

足の指とおしゃべりする。


春先って、変な人でてくるっていいますよね。今日もすれ違いました。陽気に歌いながら足速にゆく人や、独りでぶつぶつと何処かの誰かと虚空通信してらっしゃる人とかですね。

なんだか妙な、騒めきがある。

花もちらほらと薫り出し、いよいよ春らしくなってきました。まだ幾分ひんやりした風と、暖かい日差しとが、肌に心地よく感じられて、今にも噴出しそうないのちの躍動を予感させます。

春は、変化が顕著に表れる季節ですね。変化は、常にストレスを伴います。ストレスって、一概に善し悪しで測れないね、なんてこと思いつつ。

以下、取り留めないんで、適当にお付き合いください。

そんな時の移ろいの狭間、ぼくも変な人の一人ちゃうかしらと思う。透き通る空のもと、鼻歌まじりにスキップしちゃうような衝動を否めない。

春先に潜むいのちの息吹のような躍動感が、例えば小学生の頃、新しい学級で、クラスのみんなで縄跳び遊びする輪の回転に、うまくリズムを合わせて入れなさそうな緊張に似て、なんとなく苦手でしたが、気づけば既に、その流れに自然にのっちゃってる感じがしないでもない。

自分自身、この自然環境に同化してるってことかしらと、ふと唐突に立ち止まり、マスクを外してその感覚を確かめたくなる。

なるほど、変なおじさんになっとるんやろなあと、自覚する。コレ、社会的にはよろしくない場合がありますね。お行儀よく大人らしく行動していなければ、あの人、変!なんてことになりかねない。町内とかソサイエティの噂、レッテル貼りなんてことになると、所属の維持が困難にもなりかねず。

そもそも変な人と認識されていて、許容されていれば、話は別でしょうが。ワレカンセズ?ワガミチヲユク?

世間ってそういうもんですね。皆様におかれましても、世間で役割に殉じたり、我がままに生きたり、その狭間で大変おつかれさまでございます。

我思う故に我あり。ホントにそうかしらん。

半世紀ほど、ぼくの人となりに人間を営んできてわかったことがあります。その一つがこの身体、もしかして、随分と丈夫かもねということです。

今年は、旧正月から禁糖しています。仕事がら365日、時間感覚なし、平日週末祝日関係なし、昼夜逆転の生活をここ東京で15年過ごしてきました。この2年間はお家時間も相まって、各地から美味いものを取り寄せては、ぷくぷくと肥えてしまいました。

肥えてたのは、それ以前からなんですがね。しかし随分、育ちました。

というわけで、そろそろ不摂生自体を見直そうかと姿勢を正して、禁糖することにしたんですが、白砂糖を主に、ほか摂取をやめてから、身体感覚に変化を見出すことが楽しくなってきましてね。

「お腹が減るって、こんな感じやったんか」なんてですね、そういえば、いつからか腹が減ったという感覚すらおぼえがない。びっくりでしょう。

今現在は、適度に飢餓状態のある生活を愉しんでいます。そうすると、段々といろんな独り言、というか、囁きみたいなものが、身体の各所から聞こえてくるんですよ。それが楽しい感じでして。

こりゃ、いよいよ、変な人ですな。誰もが、その人なりに、そうあるのかも分からない、ですな。

さて、皆様の生活では、どうでしょうか。少なくともこの2年間、1日24時間、どんな時間が増えましたか?

ぼくなんかは、

スマホをのぞき込む。(アディクト)
テレビを流している。(仕事柄年中そう)
ゲームに興じている。(趣味&現実逃避)

ヒマさえあれば、目まぐるしく変化する自分自身の外へと意識を放り出しては、忙しそうに時間を過ごす。いや、そうしてると時間が過ぎていく。

これ、コワイんですよ。そう思います。気づいたら、放っておかれた自分自身が、もう手遅れ、なんてことにも、気づかないかもしれないんでね。

情報にこの身を晒していると、活発に動いているのは目です。目は、唯一むき出しになっている脳の外部器官です。その間、脳は活発に情報処理をしているんだけど、その一方、足の感覚を意識することなんて、随分と疎かになっていたりする。

だから、足の指とおしゃべりするんですよ。人前だと具合がよろしくないなら、こっそりやればいい。生きて活動している身体との対話です。

身体を意識しない生活も意識する生活も、繰り返し過ごしているとその状態に慣れてしまいます。

近頃は、飢えにも慣れました。不快って、快にも成り得ます。逆に、快も続けば、不快に。だから、自分自身にとっての程度、ええ塩梅を測りたいんです。何で測るのか。自分自身(からだ)でです。

たまにふと、自らの生活を省みて、このままじゃまずいなあと意識して、お隣さんを気にしてみても、自分と似たり寄ったりな部分を、都合よく見出しては、まあええかなあと、やり過ごしたり。

それがそのうち、意識もしない普通として、生活の基盤になる。身体の使い方が、随分偏ってることが常態化します。こころも、おなじく。

そんなことを、自分なりに生きてる年月分、続けた結果として今、自分自身がある。自分だけではなくて、隣であったり、すれ違う人、SNSの向こう側にも、その人なりのカタチを形づくってきた人達がいる。そうして、多様な皆が、なにかしらの関係性を持って、社会で暮らしている。

死を想うことは、生を想うこと。

先日、誕生日でした。ここ最近、ある国では、新しくも時代錯誤な戦争によって、無造作に失われるいのちがあります。

ぼくらは皆、母のお腹の中で一個の卵でした。一個の細胞が分裂を繰り返すうち、今現在に至りますね。まあ随分と、大きく成長したもんですな。

この世に生まれて以来、自ら口に入れるものが身に成ってきました。それだけじゃなくて、目にする、耳にする、触れるものも、同じく心に影響を及ぼしてきたんですよ。

心は、それが触れるものから、自覚あるなしに関わらず、確実に影響を受けている。

占いなんてそうでしょう。目にすると、もれなく影響受けますね。笑 

今、こころに触れてくるもの、それって自分自身にとって必要でしょうか。ケチをつけたいんじゃないんですよ。自身の快、不快の感覚を、なんとなく外からの情報を、自らの歯で咀嚼し、味わうことなく、鵜呑みにしてやり過ごしてしまうんではなくて、本当に自分の心身が納得してそう過ごしているかどうか、過去でも未来でもなく、今この瞬間どうかを、確認したいんです。

腑に落ちる感覚です。落ち着く。その時の自分自身の姿勢はどうでしょうか。足指はどこを向いていますか。姿勢が変われば、いつも見ていた景色も情景も、見え方が変わります。そうすると、その後は自然な流れで、感情、思考、行動、変わってきます。視座が変われば、視点は変わるよね。

今ある私自身の状態を、身体の内からではなくて身体の外から理由づけして、なんとなく巧く自分自身を誤魔化し誤魔化し、過ごしていませんか。

単純に、ここまで生きながらえたことを考えると、誰もが自分自身を活かす達人、と言えそうです。そんな風には、考えないかも知れませんが。

ぼくなんかも、結構ソレ、ぼくなりに長けててですね。なにしろ丈夫なもんで、少々のことを外部からこの心身に取り込んでも、具合が悪くならない。よくもわるくも、毒を食らわば皿までを、過ごしてきました。測りようもないですが。振り返ってみると、そう思う。

生を軽くみることは、育むを軽く見積るということ。

ぼくは体癖論という人間の学びを通じて、改めて身体への理解を深めたいと思っています。そうすることが、結局は、自分や他者の心身、人間社会、世界の理解へ繋がると、経験してきました。

そして2年前からは、精神性よりも身体性ということについて、自分の身体を見直しています。

結局のところ、心身一体です。そうすると、どこからどこまでがそうなのか、自他はどうなのか、世界はどうか。なんてことは、測り知れない。

この人生を、自分自身なりに心豊かに過ごしたい方、自身の実感に基づいて毎日を生きたい方、講座やカフェでご一緒できれば幸いです。

春の陽気に、ぜひご一緒に。いやいや当然、適当な距離感を保ちつつ、スキップいたしましょう。笑

今日も、そんな春のちょっと強い順風が、吹いています。

3月中の講座、左右型3・4種を軸に『食と感情と色』をテーマに開催中です。ぜひおこしください。

余談。個人的に、誕生日って、両親に感謝する日にしています。ぼく自身、誕生日おめでとう、なんていわれても、どう反応したものやら正直戸惑います。(米国に居た頃のサプライズ誕生会!などは、異国の儀式として割り切って過ごしていました)まあ、親孝行もしてきてませんからね。こちらから、ありがとうの念を伝えるに、ええ機会かと思っています。


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