【読書】『ティファニーで朝食を』トルーマン・カポーティ
このタイトルを耳にして多くの人がまず思い浮かべるのは、オードリー・ヘップバーンが主演したあの映画だと思う。
誰もいない早朝の街、ティファニー宝石店のショーウィンドウ、シックな黒いドレス、パンとコーヒーの朝食、うっとりするほど美しいオードリー。
何度観たかわからない素敵な映画だし、オードリーはわたしの憧れの女性だ。
映像も音楽も、とてもとても素晴らしい。
けれど。
けれど、けれど、けれど。
この映画の華々しい知名度は、原作にとっては少し迷惑なことだったかもしれない、と思う。
だって、映画と原作とでは、内容もベクトルも、まるで違いすぎる。
まず、これは恋愛小説ではない。
原作の中で、語り手の「僕」と主人公のホリー・ゴライトリー(映画ではオードリーが演じていた)は、最初から最後まで一貫して友人だ。
彼の、友人としての深い理解とシンパシーがあればこそ、ホリーはあれほど魅力的かつ深みのあるひととして浮かび上がる。
ホリーを恋愛対象として見つめないからこそ、「僕」は兄弟のように親友のように、彼女の抱える深い孤独とそれを超えてなお輝く無垢さを、とても自然に理解することができる。
もし「僕」がホリーを恋愛対象として見ていたなら、彼女はただの「何を考えているかわからない女の子」になってしまっただろうし、事実映画では、そうなってしまっている、とわたしは感じる。
それはそれで、魅力的ではあるのだけれど。
初めてホリーを目にしたとき、「僕」は彼女をこう描写する。
この文章を読んだとき、わたしはこのホリー・ゴライトリーという女性のことをいっぺんで好きになってしまった。
朝食用のシリアルみたいに健康で、石鹸やレモンのように清潔!
この魅力的な雰囲気をまとった彼女はさらに、名刺代わりにこんな風変わりなカードを持っている。
これでもう、わたしは完全にホリーにやられてしまった。
あとはもう、彼女というひとを知りたいという欲求に従って、「僕」と一緒にただ夢中でホリーを観察した。
そしてそんなふうにわたしが彼女を観察するためには、「僕」が恋愛感情なしで彼女を見つめ慈しんでくれることが、どうしても必要だった。
わたしは今でも定期的にホリーに会いたくなって、この本を開く。
そこには、オードリー・ヘップバーンとはまるで違った種類の複雑な魅力を放つひとがいる。
希望と絶望、少女性と成熟さ、無垢と猥雑。
カポーティの、ため息の出るような美しい文章とともに、ぜひ。
※書影は版元ドットコム様よりお借りしています。
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