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熱いバターを口いっぱいにふくんでも「おいしい」くはなかったけど―パキスタン山岳牧畜民の生と死と種まき儀礼

パキスタン北東部にいると、街で食べられるものは、パロータなどのパン、ミルクティ、ビリヤニ、チキンのカレー煮、野菜のカレー煮…ぐらいじゃなかっただろうか。

若干パキスタンにもきている中国の新疆ウイグル族がそこにいれば、ラグメン(手打ち麺のおかずがけ)、ポロ(羊肉と人参の炊き込みご飯)なども食べられる。しかしなぜかそこでは醤油系の調味料がなく、ラグメンは薄い塩の野菜スープがかかっているだけのものばかりだった。おいしいのを食べたいなら、なぜか新疆に背をむけて、ラワルピンディーまで山を下りないといけなかった。


わたしの調査していた民族の料理は、街にはなかった。


どんな料理かって、バターや生クリーム、塩で加熱して練り上げた小麦粉を、薄焼きパンですくって食べるのである。

見ているだけで脇がぺたついてくる乳脂肪たっぷりの料理。名前は「バット」。


パンでパンを食べるのか…………。



とため息をこっそり飲み込まざるをえないわたしなのだが、人々は大喜びである。


バターはかれらの宝なのである。



生乳を静置したもの(酸乳)を攪拌(下のむらでは大概電動)して固化させたものも「バター」と呼ばれていたが、長期保存のきかない白いそれは、よく下のむらでのお客さんにだされていた。山の上の夏の放牧地では、氷河の近くに放たれた(完全に自由にされる)ヒツジやヤギやウシが、毎日たっぷりと草を食べてのびのびとすごしてだす乳を、ヨーグルトにしてから撹拌機(人力)でじゃっこじゃっことまぜ、とりだしたバターは黄金色をしていた(いわゆる発酵バター)。長期保存も可能なそれの攪拌風景を、よくわたしは女性たちに隠された。

発酵バターと薄焼きパン。これを塩味のミルクティーで食べるのはわりと好きだった。

「誰かの前に誰もが欲しいと思うものをおいたりしてしまったら、それはあげなくてはならない。だからこの作業は、誰にもみせずにやらなくてはならないものなのだ」と厳しい顔をして女性たちが立ちふさがった。

でもはっきりいってわたしはここの人たちが大喜びのバターの料理がきらいなのである。口に含むと脳髄に染み渡ってくるほどの乳脂肪、体の脇はメッタメッタに脂ぎってくるし、どこからニキビがでてくるやらである。

わたしには乳脂肪を口いっぱいにふくんだら幸せ、という味覚の回路が形成されてこなかったのだな、と思っていた。

だから、わたしはここで唯一バターをみてもまったく問題がおこらない人間なんだから見・せ・てといったのである。

あとでカラチでペルシャ語を勉強していたというインテリの家長氏が下のむらからやってきたとき、彼は「このひとは日本人で文化の研究者なんだからみせてやれ」と口添えしてくださった。

渋々、不承不承、なんだか不機嫌な女性たちの立ち居ふるまいもわたしには興味深くてしょうがなかった(異文化)。


(画像は自粛w)



そのバターは春まで大事に保存されていた。
その世帯は、80歳代の3人の兄弟(2人は故人)とその息子たち(娘は婚出する)とその妻とその子らという、31人が共住するとんでもはっぷんの世帯だったのだが(おばあさんが3人並んで食事をしていたりとか)、
その冬、3人の兄弟のうちの2人の兄弟の息子らと妻と子ら、1人の兄弟の息子らと妻と子らとで、家をわけた(よくある)。

引っ越しでは、ヤギの毛で編んだ敷物や衣類、調理道具などたくさんの運ぶ荷物があったのだが、意気揚々と最初に運ばれたのはバターだった。

清潔なバケツにたっぷりとつめられたバターが、いま、あたらしい家をつくる。


春になると種まきの儀礼がおこなわれる。


そこであらわれたのもバターだった。


いつもは同じ材料で「バット」(上記)ばかりつくっていたのに、


そのときだけは砂糖で味付けされた「ムール亅がつくられた。それは落雁がバターに沈んでいるような味わいだった。

「ムール」。

それは、種まきの儀礼でのみ作られる料理で、バターと小麦粉がねりあわされていない、分離しているかたちの料理だった。

その春初めて畑に鋤をいれる役目をになっていた牛は、額に小麦粉をかけるという「祝福」をうけていた。

耕作の訓育をほどこされた去勢ウシ。
めっちゃ有用なので、時々他の世帯からレンタルされていた。
見えにくいが、おでこに小麦粉(「祝福」)がかけてある。この「祝福」は人にも同じようにおこなわれる。

そして、いつもは毛を内側にして着る羊の皮でできた上着を、このときだけは年配の女性が裏返しにしてかぶって(!)、男性と去勢ウシとによる初耕作をみまもっていた。

牧畜民のあいだに若干みられることだと思うが、年老いたメスの家畜(=年をとった女性)というのは、たくさんの子を産んで、群れを増やしてきた起点として、自分の名で呼ばれる母系の一群を保持していたり(人間によって)、豊穣の象徴となっていたりすることがある。


そして、このむらの人間の年配の女性らは、その死と再生をつかさどっていた。

ヒツジやヤギの子が、虚弱だったり病気だったりして死ぬことがままあるのだが、これらの屠畜を間にあわすことができず絶命してしまったりすると、それは食用にはされず(イスラムの慣習)、その辺の藪にほおってこられることになる。そのほおられた体は、各家が夜間に防犯のためにはなつ犬の夜食になったりするのだが(怖くてトイレ行けないw)、そのほおってくる役目を、たまたま手のあいていた20代の女性がやろうかとたちあがったとき(女性の役目)、80代の男性がそれを止め、「若い女性が家畜をほおると、また家畜が死ぬことになる」といった(まだ子供のいない女性だった)。
そしていつものように、60代の女性がそれをほおりにいった。

病気で息も絶え絶えの子ヤギ。屋内にすわっているおじいさんがなかでナイフを研ぎ、回復する見込みがあるか否かを見極めていた。

年配の女性が触れることで、死は力強い再生とむすびつくのである。

初産の子というのは、家畜の話でいうが、虚弱だったり、死んだりしやすい。
死んだ家畜の命を、あらたに生まれる強い命につなげることができるのは、若い女性ではなく、年配の女性のほうだったのである。


そんな女性が羊の毛をまとって耕作と種まきの儀礼をみまもった。

ヒツジの皮でつくった上着を、このときだけは裏返して着る。

わたしは、女性はヒツジとして儀礼のなかにいたと思っている(世帯の家畜の所有者はほとんどが女性[全部個人所有]。群れのほとんどはメスだしで[オスから食べるから]女性と家畜の結びつきは強い。男性が家畜を所有するのは、実母が亡くなってその相続をしたときと、購入したときのみ)。それは、男性らのおこなう、この痩せた土地の耕作に必須だった、ヒツジ・ヤギの家畜囲いの下にたまった糞尿のまざった土をあらわしていたようにも、わたしには思えた。

奥の畑にみえるのが、ヒツジ・ヤギの家畜囲いのなかの地面から運ばれた土(肥料)。
わたしが雑談で「日本には家畜はいないが畑はあるよ」と現地の人にいったら、
「家畜がいないのにどうやって畑ができるのだ」と目を白黒されたことがある。

男性の側は、去勢ウシ(種ウシは耕作のできるウシとはされていなかった)と、一緒におこなう耕作の側にあり、その後の種まき(家畜の”種つけ”と同じ語彙だった)、畑の世話(夏季に水路から水を引く)、麦刈りをしていた。そうした畑の作業に、女性が参加することはなかった。
家畜の放牧には男性も女性もいくが、乳しぼりをするのは女性だけである。そして屠畜をするのは男性だけである。

種まき(初鋤いれ)を儀礼的にする男性たちと、羊の皮をかぶってそこに立つ年配の女性。


男性が屠畜をし、
男性が種まきをし、
男性が麦刈りをするのか。


ふ〜んと思ってみていた。

大麦の脱穀@山の上

夏、山の上の畑ですくすくとみのった大麦の脱穀は、山の上でだけの話だが(下のむらには脱穀機があった)、円形の広場の中心に刺された木の棒に横一列にくくられた牛やロバが、せっせとそこを周回することによっておこなわれていた。後ろから鞭がわりの枝を持って男性がそれを追うのだが、男性は、一緒にプラスチックの容器を持って、うんこをしそうな家畜の尻をみると即座にかけより、うんこが麦とまざらないように容器で受け止め、遠くに投げ捨ててはまた枝を持って家畜を追うという作業をくりかえしていた。炎天下での(氷河近くの高い山だから涼しくはあるのだが)この盛大すぎる労働を拝むようにみていたわたしだったのだが、脱穀が終わって麦集め専用の箒で、女性たちが麦を集めて袋につめていった(えっ、女性も麦の仕事するの?)。

それが済んだところで、60代の女性のひとりが、その箒に布をかけて、「祝福」をして、家のなかにもってくるということをしていた。

ぼろ布をかけられた麦集め専用の箒(上下逆)

なにこれ、おもしろいですね。これなんですか?なんでこんなことするんですか?とたてつづけに質問したところ、それを持ってきていた60代の女性が、まんざらでもなさそうな表情になって、それをあらたにつくりなおしてくれたのが、こちらである(上記は簡易版だった)。

麦集め専用の箒のうえに、ヒツジの皮の上着を裏返しにしてかぶせ、
さらに女性用(大概は40代以上の女性がかぶる)の帽子をかぶせて「祝福」をした。

死に際してそこにいた年配の女性、生に際してそこにいた年配の女性、
そして死をつくりだし、性を管理する男性(去勢ウシ)が、畑の作業に従事していた。そして死をともなわずにうみだされる食糧である乳を搾るのは女性の仕事だった。ひとびとは、死と生、生と死、性をめぐってがっぷりとくみあって循環しあっていたのである。

春は、家畜の子が生まれるシーズンである。春に生まれた子畜らは、麦の種まきが終わると、山をのぼり、たくさんの乳をだす母畜と氷河近くでの日々を送る。
秋にみのる麦は、男性の手によって刈られ(ところでゴッホの「麦刈り」って死をあらわした絵だってご存知ですか。日本で稲刈りが死とかって思想は…う~ん?)、その「再生」に寄与する役割をおびていたのは、またしても女性だったのである。それも年配の女性である(刺繍の帽子をかぶるのは、一般には40代以上の女性)。

死んだ家畜(それ以外にも、男性の屠畜によってもたらされる死んだ家畜)に触れ、再生をうながす女性と、男性の麦刈りによってもたらされる死(麦の)と、その再生をうながす女性…、そして種まき儀礼における、バターと麦がわかれたあの料理。あれは、あのむらのなかでの男性と女性、死と生とのあいだでのみ味わえる、あの料理だったのだ。

あのバターたっぷりの、頭がつーんとするほどの乳脂肪のあの料理は、どれだけ金を払っても、どこかでつくってもらうことはできない(そもそも一回の料理に500g以上とおぼしきバターを投入するなどということは……)。


いつか体が動かなくなって、もうフィールドワークができなくなるときがきたら(年をとれば、年をとったなりのフィールドワークがあるんじゃないのかなと思ったりはしているのだが)、あの山で、あのむらで、山とヒツジさえいれば生きていけるとえいえいとすごしてきた、人々のあの空気のなかで、研究をしないという稀有の時間をすごしてみたいと思っていたりする。

かれらは自分らを金も権力もない貧しい民族だと思っていただろうとわたしも思う。でもわたしは、麦も乳も肉さえもかれら自身の手でつくりだし、あのように食べるという、あんないのりにみちた空間ですごすという経験を、後にも先にもあの一年でしかしたことがない。



#元気をもらったあの食事

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