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幼少期のタイムカプセルーババ抜きと文化のこと

フレイザーの『金枝編』(上)(2003 筑摩学芸文庫)で、ヨーロッパの「麦女」について読んでいた。

「春に、風が麦畑を波のように揺らすと、農夫たちは「麦の母がやってきた」とか「麦の母が畑の上を走っている」、もしくは「麦の母が麦の間を通りぬけている」と語る。

p457

ヨーロッパでは麦の命は「女性」によって表象されるのか、と

「麦の母」は収穫期の風習ではある重要な役割を演じる。彼女は、畑に最後まで残って立っている一握りの麦穂の中にいる、と信じられている。この最後の一束を刈って、彼女を捕まえるか、追放するか、あるいは殺すのである。

p458

「麦刈り」って、やっぱりそれを「殺す」場でもあるんだねぇ~。

麦の霊は、刈り手たちが麦を刈ると彼らの前から逃げ出す。刈られた麦を離れ、納屋に避難するので、納屋では脱穀される最後の刈り束の中で穀竿に打たれて死んでしまうか、隣家の農場のまだ脱穀されない麦の中に逃げ込むようである。したがって、最後に脱穀される麦が「母麦」もしくは「老いた女」と呼ばれる。

p468

麦から麦へと逃げ去る「母麦」、最後においつめられる、「母麦」…。

ハノーファー(ドイツのニーダーザクセン州の大部分を占める区域にあったプロイセンの州。神聖ローマ帝国選挙侯領1692年~1806年、王国1814年~66年)のハーデルン地方では、刈り手たちは最後の刈り束を囲んで立ち、「麦の母」を追いだすためにこれを棒で打つ。皆口々に、「ほらいたぞ!打て!彼女に捕まらないように気をつけろ!」と言う。

p459

「麦の母」を、それに捕まえらないように、みんなで追い出す、と。

ベルファスト近郊では、最後の刈り束はときとして「おばあちゃん」(Granny)と呼ばれる。これは通常の刈り方で刈られることはなく、刈り手たち皆がこれに手鎌を投げ、切り倒そうとする。

p462

スペシャルの麦。

最後の麦穂を刈った者はこれで人形を作る。これは「麦の母」もしくは「老婆」と呼ばれ、最後の荷馬車に乗せて持ち帰られる。

p459

やっぱり人形はつくるんだな。

スティリアのブリュック地方では、村で最年長にあたる50歳から55歳くらいの既婚女性が、最後の刈り束で「麦の母」と呼ばれる女の人形を作る。

p459

麦刈りと人形の関係、パキスタンにもあるんだよなぁ…。パキスタンのほかでもそういうことするってことあるのかなぁ…。

脱穀で穀竿の最後の一振りをした男は「麦の母」の息子と呼ばれ、「麦の母」の中に包まれて、打たれ、村中を連れまわされる。

p460

「麦の母」にさわると罰ゲームになるんですな。

ときには穀竿の最後の一振りを行った男が「老いた女」と呼ばれ、最後の束の麦藁に包まれるか、束ねた麦藁を背中に結びつけられる。包まれる場合も背負う場合も、この男は村中を荷馬車で運ばれ皆の笑い者になる。バイエルンやチューリンゲンその他のいくつかの地域では、最後の束を脱穀した男は「老いた女」または「老いた麦女」を持つ者と呼ばれる。彼は藁で縛り上げられて、村中を連れまわされるか馬車で運ばれる。そして最後は堆肥の中に落とされるか、まだ脱穀を終えていない脱穀場に連れていかれる。

p468-469

そして、ポーランドとリトアニアの事例だけでだが、その「麦の女」の名前が………「ババ」(「老いた女」の意味らしい)。


………。



…………。



え、ババ?抜き?ババ抜き???。
いやいやいやいやいやいや
なんであれって「ババ」なん?とか、ジョーカーって何?とか思ってはいたけど、ババ抜きってヨーロッパの麦刈りのことだったん???(てか英語の”ババ抜き”って「ババ」じゃなくね)。

日本で無邪気に遊んでいた幼いわたしは、麦農耕牧畜文化というヨーロッパの基層文化を勝手に埋め込まれてたの?誰だよこれわたしの生活にまぎれこませたの。

と、なんだか「それを今わかった(?)」という事実に憤慨してしまい、日本の遊び大全みたいな本まで大学図書館でひっくりかえしてみてみたけど、ババ抜きと麦文化の関係だの、これが日本にどういった経緯で紹介されたものだのはみつけられていない。


こういうのってヨーロッパの人たち意識的にやったのかどうか、それとも、なんとなくやったのかどうかも、わからん。


麦じゃなくてあらゆる精霊全般(エクソシストとかw)に対する考え?という可能性も?


でもどんどん束にされてカードは減らされていくとともに居場所がおいつめられていくババ、ってまんまじゃね?


なんか無性に腹が立ったので(異文化の生業に対する民俗学的知識の枠組みなんてものをなんの断りなしに幼少期にひろめられたという)
がーっと「書こうか!」と思ったけど、私の知りたいものがでてくるかどうかわからなくなってきたので(”下手人”の感情みたいなものに触れられるかどうか)保留中。
果たして西洋人の側に明確な意図があったのかどうか(どこの国からなんでしょうねぇ)。
なんか調べなければならなそうな範囲がものすごく広くなりそうな気もして、それがわたしの主たる関心といえないような気もしたので、


誰か追及してくれたら読みたいデース。





わたしのほうはというと、パキスタンの山奥(人々自身はアフガニスタンからの来歴)でわたしが見てきたことによって、いろんな新しい関心がヨーロッパを含めて呼び起こされていること自体が楽しい。

わたしがここを調べたことで、ヨーロッパの文化と思われていたものが、実はパキスタン、アフガニスタンまで広がっていたとか、それは「ヨーロッパ」の文化じゃなくて「麦農耕&牧畜」の文化じゃないのか、といった読み替えを提案できるようになっていくことが、嬉しい。


女性の調査者ってのもまた少ないしねぇ。



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