作曲・編曲154

今日こそは「自分」と「他者」との関係性について書くつもりです。

つもりなだけで、実際書いてみないと分からないのですが(汗)。

これまで書いてきた通り、「他者」とは「他の人」ではなく、自分では即座に理解出来ない異質な存在、「自分」とは「その本人」ではなく、自分と共通認識を持つ、それこそ「以心伝心」が通じるような関係性のことを指しています。

この事は音楽以外でも言える話ですが、基本的に音楽の話しかここでは書かないことにしているのと、ただでさえ広げすぎた風呂敷がこれ以上広がると全く収拾がつかなくなるので、あくまでも音楽についての話です。

で、音楽の場合の特殊性としてまず考えなければならないのは、一部の音楽を除けば、同じ文法で書かれることです。

基本的に12平均律で書かれているし、微分音も大半はこれが元になっているから、異なる文法では書かれない。

言ってしまうと「他者」なんて存在しない、という話にもなりかねません。

ただ、それこそ現代音楽は良く分からない、という方は多いですよね。明かにそちらの方が多数派でしょう。

大半の作品は文法が違っている訳ではありません。

でも「外部性」があるから「良く分からない音楽」になる訳です。

すなわち「文法」は「外部性」を妨げるものではない、ということです。

というかこんなに難しく考えなくても、自分にとって「分からない音楽」は沢山あるはずなんですよ。

「分からない音楽」がない、という方がいたとすれば、それは単に音楽の聴き方が偏っているだけでしょう。

というより、分からない音楽は遠ざけるから、ないように感じてしまうだけだと考えています。

やはり未知の存在を避けてしまうのは本能的なものなのかもしれません。知っているものの方が安心で安全。未知の存在は分からないから怖い。

でも別に未知の存在であったところでとって食われる訳ではない。所詮音楽ですから。

自分自身はむしろ「純邦楽」なり「現代音楽」から来た人間で、ある意味「外部」から来た人間という感じだからそう感じるのかもしれませんが、たかが音楽、どうってことはありません。

まあ戻りたい世界じゃないけど。

やはり今日も話が逸れてしまっているような気もしますが、字数も多くなてきたので、続きはまた明日にでも。

ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。