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ずっと探していた答えは、とてもシンプルなものだった。

北海道キャンプへ行った最終日の朝、初山別村のみさき台公園という場所から、碧く広がる日本海を長い間見つめていた。
その海の色が私の心を落ち着かせていくのがわかった。
「青」というより、「碧」。
やや緑がかった深いブルー。

普段、私は海を見るとなんだか落ち着かなかった。海はあまりに大きくて、果てがなくて。自分が呑み込まれてしまうような感覚。私にとって、海はどちらかといえば、心許せるものではなく、畏怖の念を抱くような存在だった。

それが、このみさき台公園から見る海は違った。簡単に言えば、「安心できる海」だった。優しかった。いつまで見ていても飽きることがなく、できればずっと見ていたかった。

ふと、久しぶりに「旅をしているな」と思った。
昔は「3日目から旅モードに入る」とよく言っていた。非日常を楽しむのではなく、非日常であるはずの旅がいつの間にか日常になっている感覚が好きだった。「旅」が「生活」になる感じだ。
今回は3日目どころか7日目だったけれど、久しく味わったことのなかった感覚を、懐かしいような思いで噛みしめていた。

碧く穏やかな海が、私の心を落ち着かせてゆく。
瞑想をしている時に似ている。
頭の中のごちゃごちゃした考えがまっさらになって、本来の自分に辿り着く。「無」に近いけれど、それは「本質」でもある。

ここ数年の間ずっと、「本当にやりたいことは何だろう」とか「何を書けば新しい仕事につながるんだろう」とか、そんなことばかり考えていた。
日本酒ライター、企業ライター、取材ライター、ある程度の専門性とスキルを持って仕事はしているけれど、それでいいんだろうかと悩んでいた。
「商業ライターって何だろうか」とぼやいてみたり、「ライターをやめて別のことをやってみたい」と友達に話してみたりもした。

数年前、がんが再発した時、私の心の支えとなってくれたセカンドドクターに
「がんを治すために生きるんですか?大事なのは、がんを治して何をしたいのか、だと思いますよ」
と言われてから、ずっと考えていた。

何をしたい?
私は生きて、何をやりたい?

「やりたいことを書き出してみたらいい」とも言われたけれど、ノートを広げてみても、何も思いつかなかった。
ライターの仕事、専門分野を広げることも考えた。クラフトビールに興味を持って、醸造家のことを書いてみたいとも思った。でもそれも結局、自分が「本当に書きたいこと」ではなかったと気づく。
私は「やりたいこと」ではなく、「どうやったら仕事になるか」「どうやったらお金を稼げるか」ということを考えていたのだった。

がんを治して、まだ生きて、何をやりたいのか。
その答えが見つからない限り、がんは治らないような気がしていた。
大げさに言えば、その答えを探すのが自分のミッションだと思っていたし、もっと言えば、その答えを探すためにがんになったのだとも思っていた。

「自分が心から楽しいと思うことをやりなさい」
ドクターにそう言われても、「楽しいと思うこと」が何なのか、それすらわからなかった。
決して「楽しみがない」という意味ではない。楽しいことは日々たくさんある。ありすぎるくらいだ。
でもそんな刹那的なものではなく、心から楽しいと思う“生き方”を探していた。

その瞬間は、突然訪れた。
碧い穏やかな海が、私を心の奥底へといざなってくれた。
「なんだか泣きそうだ」と夫に言った。
それ以上はうまく話せなかったけれど、帰ってここに書こうと思い、無理に言葉にするのはやめた。

あまりにも単純すぎる答えだった。
でも、本当はわかっていたような気もする。ずっとわかっていて、目を背けていた。自分の人生にはもっと「何か」があると思いたかったのかもしれない。まだ「何者か」になりたかったのかもしれない。

答えはこれだ。
私はただ、書きたかった。
ライターの仕事とは関係ない、たとえばこんなnoteの1円にもならない文章を。ただの自分の思いを。
ああ、それでいいんだと思ったら、泣きそうだった。
結局、自分にはそれしかないし、ここに戻るのだから笑ってしまう。

「書け!書け!書け!」と、心の奥底の自分が叫んでいる。
仕事にも、お金にもならなくていい。人の役にも立たなくていい。
それどころか、誰にも読まれなくてもいい。
書きたいものを書いていこう。
私が生きて、やりたいことは、書くことだ。
仕事とは関係なく、誰の代弁者にもならず、利害関係もなく、ただ、自分の書きたいものを書く。
それが本当にやりたいことだった。心から楽しいと思うことだった。私がまだ生きたいと思う理由だった。生きる意味だった。

わかっていたはずなのに、どうして別の答えを探していたんだろう。
「本当にやりたいこと」を考える時、いつもどこかで「お金を稼ぐこと」や「人の役に立つこと」に繋がらなければならないと思っていたからかもしれない。それは「結果」であって、「目的」にしてしまうと、「本当にやりたいこと」は見えてこないのに。

旅の中でシンプルな答えに辿り着くと、急に生きることが楽しくなってきた。肩の力が抜けた。
若い時は、30歳になったら、40歳になったら、50歳になったら、何者かになれるのではないかと、心のどこかで自分に期待していた。
でも、何者にもならなくてよかったのだ。いまも、これから先も。
私は一人で、何かを書いていれば幸せな、そんなただの人だった。
子どもの頃と同じように、ペンと紙があれば、それで十分な人生なのだ。

古賀史健さんの最新作『さみしい夜にはペンを持て』を読んだ。
ここでは内容についてはいったん置いておくが、まずこのタイトルにやられた。いつもこのタイトルを見るだけで目の奥が熱くなり、じんわり涙が浮かんでくる。
友達と喧嘩した夜、失恋した夜、仕事で失敗した夜、自己嫌悪に陥った夜、いろんなことがうまくいかずに泣いた夜、ただただ孤独な夜。
いつも私は日記を書いてきた。いつも書くことで救われてきた。その日々がこのタイトルを見るだけでよみがえってくるのだ。さみしい夜に何度もペンを持ち、書き続けた。

最近、そんな自分を忘れていた。ほとんど何も書いていなかった。
頭の中はいつも病気や痛みのことでいっぱいで、いつの間にか「がんを治すために生きる」生活をしていた。
大事なのは、生きて、何をするのか。
さみしい夜にはペンを持てばいい。辛い夜も、苦しい夜も。もちろん、楽しい夜も嬉しい夜も。
ただ、書き続けよう。自分自身のために。

碧い海を眺めていたら、ずっと探していた答えが見つかった。
こんなふうに日常の中では見つけられないものに出会えるから、私は時々旅をするのだ。
私の中で何かが変わった。

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