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閉じられた幸福

子どもと一緒にいく場所として多いのは動物園や水族館。
しかし一言に動物園といっても、園ごとに特色があり、趣があって面白いと感じられるのは大人になってから足を運ぶからこその醍醐味かもしれない。

先日訪れた園にはオランウータンや様々な種類の熊(もちろんホッキョクグマも)、ジャガー、数匹のナマケモノなどがいて興味深かった。

中でも高齢な動物は同じ種の属する場所とはまた別途バリアフリーな空間に身を置いているというので、動物も人間と同じく年を取ればあちこち支障をきたすので生活がしやすい場所に移るのだなと思った。

水中ではなく、地上で餌を食むかばの姿を観れたのは嬉しかった。呼吸のため水面から顔を出す瞬間を待たなくても、もっしゃもっしゃと一心不乱に口を動かす姿を見られるのはある意味貴重だ。

園児たちが先生に誘導されてガラス越しに猿などを見物している姿がまた愛らしい。わいわいと賑わうその日は小春日和で暖かく、あれこれ友人間で言葉を交わしながら歩く様を見つめながら、我が子もいずれこんな風に遠足を楽しむのかしらと思い馳せた。

順に沿って足を進めると亡くなった猛獣の献花台を見つけた。愛されたその獣は数年前に息を引き取り、見物客たちがそれぞれに別れを偲ぶ姿が見受けられた。私は園の事情などは知らないただの一般客でしかないけれど、ふと、こんなことを思った。

野生を生きていたならば、死はただただそこにあるものにすぎず、弔いはただ身内によりそっと行われるのみであっただろう。だけれども、この閉じられた空間に生きていた命は人に尊ばれ、死は涙と花をもっていつまでも残り続ける。

閉じられた幸せ、というのもあるのだな、と。


保護された動物を生かすための仕組みとしての閉鎖空間は子ども心ながらにどこかかわいそうな気もしていたのだが、大人になって改めて足を運びながら「守られている」「ケアをされている」「何かがあればすぐ駆けつけてくれる」という安心感を得られることの意味をより重く受け止めるようになった。

どちらがよりよいというものではない、どちらにもそのよさがある。


鳥インフルエンザが猛威を振るう中、白い薬品がまかれたゲージの外側をぼんやりと見つめながら、共存についてとりとめもなく思考が流れる。

ああ、コアラ(舎が工事中で見られなかった)…見たかったなぁ

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