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世の中は哲学的に考えると、わけがわからないけど面白いという話

ブルーツ・リーです。

2022年の初読書は『哲学的な何か、あと科学とか』。

私たちは「科学的に証明されている」と言われると、
それを真理として受け入れ、思考停止になりがちです。
しかしそれを「哲学」で考えると、とたんに答えが分からなくなり、
知的好奇心が広がっていくようです。

この本の著者の飲茶さんは、
「哲学というものは、実生活において、まったく役に立たないどころか、
邪魔にすらなる」と言います。

では、なぜ、哲学をするのか? 

それは単純に「面白いから」。
逆に哲学をしない人は、単純に哲学の面白さを知らないから、
と著者は言います。

著者の飲茶さん自身は、哲学の専門家でもなんでもなく、
普通のサラリーマンだったようです。

図書館で本棚に並ぶ本を見て、「ああ、世の中には、先人たちの知が詰まった面白い本が、こんなにもたくさんあるんだなぁ。でも、今のような忙しいサラリーマン生活を続けていたら、これらの知識に触れることなく、死んでいくんだろうなあ」

こう思って、急に居ても立ってもいられなくなり、
思い切って会社を辞めてしまった。

という変わり種です。

それほどまでに哲学の面白さに魅入られた飲茶さんですが、
私たちはそう極端にならないまでも、
この著書からは哲学の面白さを十分に体感することができます。

それでは、ほんの一部ですが、
本書で取り上げられている哲学の面白さを紹介します!

「我思う、ゆえに我あり。」の深い意味

「我思う、ゆえに我あり」

この言葉は誰でも一度は聞いたことがある
哲学者デカルトの有名な言葉ですが、
「その深い意味」について考えたことはないと思います。

この世で「もっとも確かなこと」はなんだろう?  
デカルトは考えました。

たとえば、

「目の前にある世界は本物か? 幻や夢かもしれない。」
「今見ているものは、実際に存在しないかもしれない。」
「これが夢ではないと、どうやって証明できるのか。」

こうして疑って、疑って、疑い続けて、
ある日、考えがひらめく。

「我々が認識するものは、全て嘘かもしれない。でも、それを疑い続けているものがいるということだけは真」

つまり、
「すべてが夢であっても、夢をみているものが存在すること」
は決して疑えない。

この世のすべてが、信じられないものであろうとも、
「それを疑っている何者かが存在すること」は絶対的な真実である。

これが「我思う、ゆえに我あり」の本質的な意味とのことです。

論理的思考の正体は「飛躍」と「矛盾」

「論理的」とは。

  たとえば、
「A=B、B=Cならば、A=C」
は論理的思考の結果。

だが「A=B」、
つまり「AはBである」というのはどういうことか?

何をもってAとBは同じなのか。
そもそも、世の中に「完全に同じもの」なんてあるのか。

同じだとしたら、A=Aでよい。
AをBに言い換えているだけであって、
A=A=Aと言っていることと同義で、
意味をなさない。

「AはBである、だから、、」と宣言するときは、
「AはBではない」ということが前提として成り立っている言葉。

結局のところ、
「AとBは厳密には違うものだけど、この際、同じと決めつけてしまおう」
ということであり、
この「飛躍した決めつけ」によって、初めて「意味」が生じている。

「AはBである、だから、、」というとき、
そこには確実に飛躍と矛盾がある。

さいごに

いかがでしたでしょうか。

ほんの一部の紹介ですが、
本書には哲学の面白さがぎっしりと詰まっています。

哲学には答えがなく、さまざまな「解釈」として語られています。

たとえば量子力学の解釈の一つで「多世界解釈」というのがありますが、
これは観測によって「この世界が多くの世界に別れていく」という、
奇想天外な解釈であり、多くの人に支持されています。

これからはメタバースといった仮想現実の世界が私たちの未来の日常に広がっていくことを予想すると、こうした哲学的な思想が、現実味を帯びてくることも十分に考えら、ますます面白くなってきます。


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