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「from Y to Y」に、僕は共感できたと勝手に思ってた

from Y to Y - ジミーサムP:

竹馬春風です。最近ずっと聴いている曲に対する諸感情をまとめます。
たまには(あるいはいつも)こうやって、価値創出を考えずに随想をしたためていきたいものです。その感情がやがて自分の曲や作品になると信じて種を蒔きます。

罪の意識と、連帯感

from Y to Y」。2009 年に投稿された、僕のようにボカロ P を 6 年ほどやっている人なら知らない人は少ないような、ボカロバラードの名曲。

この曲には 3 年前にのめり込むように聴き、それ以降も年に数度自分の生活の中でリフレインしていく。数百回読み、理解したつもりになっていたこの曲の歌詞のうち、特に印象的なのはサビ後半のこの部分である。

数え切れないほどの罪を重ねてきた
その手に触れたこと
君の隣でそっと生きようとしたこと

piapro(ピアプロ)|オンガク「from Y to Y」

君の手に触れること、君の隣で生きようとしたこと。それを自分の罪状として数える感性が、3 年前から今を貫く自分の感覚にあまりにも合致する。そのような気がした。

思うに、この曲と出会うまで僕は自分の罪状を言語化する材料を持っていなかったのである。
楽曲に共感するということは、自分の感情と曲の感性との差分を比較して、等号で結んでいく作業ではなく、どちらかというと自分を曲のほうに引き寄せるようなものである。
「from Y to Y」は、かくして僕の罪状っぽい何かを言語化して宣言し、まるでこの曲に出会う前から僕も「君の隣で生きようとした」という罪を犯していて、曲と出会うことでその確認作業がなされただけである、という記憶を僕に与えた。実際には、曲に僕の人生をマル付けされたのではなく、僕が曲から答えを写したようなものである。

きっと曲中の「僕」(あるいはタイトルやこのブログに基づいて、と謂うべきか)は、3 年前の僕と同じように、恋に託けて「君」に依存し、傷つけ、自分は幸せと思っているばかりで相手にそれを与えられず、結果的に別れることになったのだろう、と僕はしみじみと思うのであった。

背中を向けて君は歩き出した
交わす言葉も無いまま
揺れる心の中 子供のように叫んだ
行かないで 行かないで ねえ…

背中を向けて僕は歩き出した
涙落ちる前に行かなきゃ
幸せすぎるのは嫌いだと偽った
強がって手放した理想の未来
取り戻せぬ願い

piapro(ピアプロ)|オンガク「from Y to Y」

「君」は言葉も交わさず歩き出す。「僕」は「君」に行かないでほしいという願いを口に出さず、強がって「理想の未来」を手放すように歩き出す。

「君」が歩き出す 4 行は、インスト・ボーカルともにハイパスフィルタがかかり、解像度が低い。それに対して「僕」が歩き出すという部分に関してはフィルタがかからず、Reverb のよく効いたスネアの音が自分の内耳でさらに増幅し反響するのである。
「君」の部分が遠く聴こえ、「僕」の部分が近く聴こえる、遠近感のあるこの演出のおかげで、一人称のカメラからの映像が鮮明に映し出される。F 値を絞った写真のほうがキレイに思えるのと同じである。

その映像が、僕の中に修正パッチを当てるようにインストールされた。
僕は 3 年前、学校の廊下で振られた。そして各々の教室に戻り、それっきり再会しなかった。最後に去っていくあのひとの足音だけが響き、僕はきっと「行かないで」と心の中で叫んだ。教室に戻ってから、子供のように泣いた。

僕は、あのひとの隣でそっと生きようとしたという罪を重ねたのだと。その有罪宣告を聴いてマゾるために、繰り返しこの曲を聴いたり、弾いたり、口ずさんだりした時期もある。

僕は、かくして Y と連帯感を抱いた。
きっと僕よりも大きく、優しく、永い恋愛をしたのだろう(それこそ、ワンルームが狭く感じるという感性を持つほどの)Y とは状況の規模が違えど、僕の延長戦上のそう遠くないところに Y がいると、そう思っていた。

「君の記憶から消える」

「from Y to Y」は、2 番からとてもしつこく「君の記憶」に固執する。

今を一つ拾うたび 過去を一つ捨てるような
有限の記憶と時間の中
そこに居座っただけの僕の存在など
きっと君の記憶から消える

piapro(ピアプロ)|オンガク「from Y to Y」

広いベッドで眠る夜はまだ明けない
また一人で夢を見るよ
君の記憶を辿る夢を

piapro(ピアプロ)|オンガク「from Y to Y」

君の記憶にそっと居させて

piapro(ピアプロ)|オンガク「from Y to Y」

記憶は本来、有限のメモリにもっとも価値のあるものを保存するのが、記憶としての全体価値が最大化されるという意味で最適である。しかし実際にヒトの記憶はさほどきれいに実装されていなくて、古い記憶ほど先に捨てられる。そんなの、記憶なんかじゃなくて、ただの FIFO (first-in first-out) なバッファだ。人間は結局、記憶という自分の所有財産を最大化するのではなく、「今」を処理するのにチューニングされているのである。
ただのバッファだから、結局死んでしまえば何も価値が残らなくなるような構造ってわけ。バッファを主記憶に書き込み、古いものをより永く残すために人間の持つ手段は、ただ執筆あるのみ、ただ創作あるのみだ。

話が逸れた。まとめれば、結局バッファでしかない自分の記憶を信じず、音楽として言語化して記録しておき、古いものを永く残す、というのが自分の創作観であった。
そういう意味では、失恋してから約 8 か月は自分の記憶と直面することができず、その後大学生になってからようやくそれなりの言語化に試みたという自分とは反して、ここまで共感性の高い楽曲で言語化ができるジミーサム P には尊敬と羨ましさがある。

本題。「僕」は「君の記憶」に居座っただけだった。それもきっと罪の意識につながることであり、例えば君に何もしてあげられなかった、君をちゃんと理解して、寄り添うことができなかった、そのように、自分の幸福だけに浸っていて相手のことを考えられなかったという後悔が、きっと「居座る」に込められている。そう自分は思った。あるいは、そう思うようにこの曲に修正パッチを当てられた。

実際に、君はどうだったのか。君は幸せだったか?それとも地獄だったか?それとも幸不幸もない、僕が居てもいなくても変わらない、元の日常の外挿みたいな生活だったか?
そんなことは歌詞に描かれていない。とても分かる、自分も作詞者だったら描けない。君からのフィードバックはもう断たれたからである。「from Y to Y」は結局、極めて自己中心的な祈りにすぎないが、かといってそれ以上の言祝ぎはできっこない。できたのなら、「「「こう」」」はなっていない

それでもなんとか、「きっと君の記憶から消える」と歌いきり、それと同時に曲の音圧感を支えるストリングスも消える。
ピアノソロだけが淡々と続き、それはあるいは君の淡々と続く生活を意味し、あるいは僕の孤独を意味する。

ラスサビでは、「君の記憶にそっと居させて」という強い祈りが込められている。されど「そっと」なのである。もうそれ以上のことは望まない、定期的に思い出して悲しんでもらうとか、そういったことではなく、あくまで「そっと」存在するだけでいい。

そういわれても、記憶とはそんなに都合よく出来ているものではない。大前提、記憶は有限である。新しい記憶を保存するためには何かを掃き出さねばならない。完全に記憶にインプットされた時刻を timestamp で保持して FIFO するのは、記憶にキャッシュとしての効果を求めるなら効率が悪い。せめて LRU (least recently used) アルゴリズムだ。しかし、最も参照されないブロックから掃き出していく LRU アルゴリズムの中で僕が君の記憶に居るためには、それこそ定期的にその記憶領域を参照せねばならない。一言でいうと、君の記憶に居るためには、定期的に思い出させるしかない。思い出すことのないゴミを記憶の奥底に取っておくみたいな都合のよさは、記憶というシステムにはない。でも思い出せば、きっと Y の求める「そっと居る」は、僕の求める「そっと居る」は、実現されないのだろう。

できないことを強請っているのだなあ。

interlude: もう二度と

泣きポ!!!泣きポです、ここ。(泣きポ: 泣きポイント)
涙腺の中に泣く涙がある限り、from Y to Y の C メロは聴けば泣けるというポイント。
ここまでの感傷的でエゴでたまにふざけた文体を一旦やめてここは純粋に音楽的な良さを語りたい。

もう二度と戻れないの?
ここは始まりか、終わりか

piapro(ピアプロ)|オンガク「from Y to Y」

1. 静→ブレス→動のカタルシス効果

2 番 A メロから抜けて淡々と続くピアノがぴたりと止まって、鼓膜から音波が脳に届く前に内臓を通って直接心臓を鷲掴みにしてくるようなブレスが入る。そこからの「Ah」に伴って全楽器付いてくるという大きな動き。
結局音楽聴いてるときって、自転車好きが上り坂下り坂を好むように曲の静と動の変化を楽しんでいる。それに対してこの「Ah」は、崖。まっすぐに反り立つ、壁。しかし僕は壁に向かって身を投げ、それにぴたりと抱きつくことの興奮を覚えるのである。

このような静→動の大きな流れを僕は「窒息系サウンド」と呼んでいる。

もう、本当に、二度と、戻れないの?

2. ♭VIIadd9 はヤバい

「Ah」のコード(ディグリーネームでの表記)である。

ここまで IV だったのに????????????いくら IV の代理でたまに用いられるとはいえ、ずっと穏便に IV-I/III-IIm-I をループしてきたのに唐突なノンダイアトニックが入り、大きく動き出す音についていけず僕の脳は動きを止まってしまうのであった。そして気付けば涙が。

ここが ♭VIIadd9 じゃなくて IV だったら、きっと「from Y to Y」は名曲にならなかった。それくらいには、決定的。(興味のある音楽経験者の方、ぜひ C メロのコードを A の代わりに E にして弾いてみて)

補足: 僕もよく ♭VII は使います。♭VI - ♭VII - I というチート進行 (例: これの 1:45) でよく使うほか、「from Y to Y」と同じ調で ♭VIIadd9 で「Ah」を入れた曲 (リンク先 1:01 あたり) もあります。完全にオマージュです。

3. メロディーラインの抑と揚

ここまで最高音を HiB で抑えてたよね?????女性だと地声で歌いやすいメロディーだった。それはすべてこの C メロで爆発するためにある。

まず「Ah」がこれまでの最高音 HiB。「もう」が HiC# → MidF#。軽々と最高音を超えていくことで、ここまでとは感情の流れ方が明らかに違うことを示唆する。

こんな感じで、いざというときに外すために、普段から箍をつけておいたほうがいいのかもしれない。曲全体のメロディーラインを抑える規模での「抑」、そこからの「揚」は伝説に残るものとなる。結局最後の「Foo」を入れれば最高音は HiF#。C メロを歌いきってからの「広いベッドで眠る夜はまだ明けない」で始まるラスサビは、1 番のサビと同じく HiB 以下に抑えたメロディーでありながらも、C メロを経て圧倒的に力強さが変わってくる。

とてもシンプルで、感情的で、暴力的な C メロに、僕は心臓を鷲掴みにされ、そしてそのまま握りつぶされてしまった。そのついでに涙腺がバグって、もうどうしようもない。

不可逆的な別れが、人生において「始まりか終わりか」という絶望感。始まりだとしたら、それは長い長い苦痛の始まり、孤独の始まり、贖罪の始まりであり、終わりだとしたら、それはこれまでの仮初の幸福の終わり、はたまた人生そのものの終わりかもしれない。
僕は、不可逆的に失敗して失恋をしてから、自分の人生の終始をどうしようもできず 3 年が経過した。今なら言える、僕にとって「あそこは始まりでした」。まだまだ先は長い。

引っかかる歌詞、そこからすべてが崩れた

ここ 1 か月、「from Y to Y」が自分の中で再燃してきたのでよく聴いていた。歌詞も覚束なくなっていたのも、聴いているうちにまた諳んじられるようになった。

そこで、先週カラオケに行って「from Y to Y」を入れ、お酒を片手に歌っていたときに、事件は起きた。

孤独の痛みで償うから
君の記憶にそっと居させて

piapro(ピアプロ)|オンガク「from Y to Y」

C メロの決定的窒息サウンドに情緒をやられて半泣きの状態で流れてきたラスサビの歌詞である。そこで、今までしっかり咀嚼してこなかった文字列が、音声でなく漢字で、明瞭に画面に映るのである。

孤独の痛みで償うから」と。

ところで、僕は人生のほとんどを(恋愛的な)孤独の中で過ごした。13 歳にして「秒速5センチメートル」を観て、色々な思考過程を経て、「自分は恋愛をしてはならない」という結論に至った。実際に 3 年前にそれが証明され、僕は現役今でも痛みながら(恋愛的な)孤独を生きている。(とはいえ、友人などの人間関係にはかなり恵まれ、今は全然幸せだと思っている――少なくとも 3 年前よりは余程。)

そんな僕だからこそ、あるいは同じような経歴の読者なら、はっきりわかることがひとつある。「孤独は、痛いが、決して償いにならない」ということだ。

Y は、とんでもない観念に憑かれているのである。あるいは、曲の聴き手にそう嘘を言い聞かせている、あるいは自分自身にそう言い聞かせているのである。少なくとも、孤独の痛みが償いになる、という発想は、これから孤独を永く経験するであろう者ほど最も回避すべき発想だと僕は思っている。

孤独は痛い。愛されないことは、とても痛い。
愛されないことくらい痛くない、そんなの独力でなんとかしろ、という方はここでブラウザバックを推奨しなくてもたぶんここまで読んでくださっていない。
結局人は愛に飢えていて、それは或る人は性慾として発散させたり、或る人は承認欲求に変換したり、或る人はラブコメや虚構を摂取して自分の中で擬似的な愛されを育んだり、或る人は芸術に昇華させたり……と、様々な形で我々は社会的な生き物として愛を求める。
だからこそ、「孤」は悲しきものである。萬葉集の時代からそう謂われている。

しかし、根本的に孤独とは自分自身の中で閉じられた感情。「君の記憶にただ居座っただけ」、君に何もしてあげられなかったという Y にこそ、孤独という自閉的な感情も当然君に効かないし、そもそも届かない、ということを分かってほしい。分かっているのであればそれで良いが。

孤独の痛みが償いなんかになると信じたところで、誰もどこにも進めないまま、ただ自分自身が痛みを蓄積していくだけなのである。一生孤独の痛みで罪を償えば何かしらの進捗が生まれる?あるいは来世も来来世も孤独であれば何かが変わる?そんな考えは僕も幾度も幾度もこねくり回して、結局はそれは自己満足にすぎない、孤独でも気持ち良くなれる姑息の手段なのだということに気付いた。

そして、おそらく、孤独になればなるほど「孤独が償いにならない」ということを誰にも指摘されなくなってしまう。マゾヒストの幻想する「情けない先輩を詰る後輩」は、存在しなく、たとえ存在したとしても、孤独な僕らの前には決して現れない。
恋愛面だけにおける孤独が、結婚適齢期の雰囲気に流され、気付けば人間関係全般の孤独、ないし社会的な孤独にすり替わっていると、もう遅い。

孤独による贖罪とかいうセーフティーゾーンから出るのは、当然のようにさらなる痛みを伴う。そして怖い。しかし、最近の竹馬春風は、社会的な孤独が閾値を超えて「無敵の人」化するかもしれない自分のほうが余程に怖い。自分の半狂乱で社会に害を加えるくらいなら、自ら死んだほうが遥かにマシである。
真に孤独でいるためには、不動で高い倫理観と自制心が必要である。自分が菩薩か何かである自信がないなら、すぐに孤独が贖罪にならないということを知り、愛を探し始めよ。幸い愛の形は先述の通り恋愛に限らないわけで、何かしらの形で、孤独の痛みを放置せず、止血せよ。

取り乱してしまったが結論を述べる。孤独の痛みはただの痛み。その痛みは例えば創作に活きるかもしれないが、決して贖罪に少しでも兌換できると思うなかれ。贖罪の相手は、もう僕らの孤独なんか見ていないからである。

さて、贖罪を、結局我々はどうすべきなのだろうか。それはきっと未解決問題だろう。その解を僕が見つけられたとしたら、きっと僕はもう世界を統一する宗教の教祖になっている。
結局は、生きて、探すしかない。

本章冒頭で行ったカラオケのオチを書いていなかった。
「孤独の痛みで償う」という歌詞を見た僕は、上記のようにひと通り暴れて大泣きし、ヤケ酒を入れて吐いてしまい食欲不振が数日続いた。どうでもいい話。

歌詞を読む眼が変わった

この一行を転機に、「from Y to Y」に対する感情が一気に変わってしまった。
僕は、勝手に Y に共感できていると思っていた。しかし実際は、部分的に似たような発想に共鳴して、そのまま自分の記憶を改竄したり、歌詞解釈を歪めたり、重要な部分を見落としたりすることによって、音楽との同一化が図られているだけだったと気付くのであった。

昔から国語が苦手だった。おそらく自分の眼は節穴で、このように重要な部分を一行丸ごと見落としてしまう癖があったのだろう。僕は、「作者の心情」を何も分かっていない。

1. 「君の記憶に居させて」について

まずは「孤独の痛み」の次の行にある「君の記憶にそっと居させて」。「そっと」の優しさとその実現可能性については既に検討してあるが、そもそも君の記憶に僕はいてほしいか。僕は――そう、Y ではなく竹馬春風は――君の記憶にいたいか?

そんなはずがない。「数え切れないほどの罪を重ねてきた」人の君へのたった一つの願いとしてはあまりにも図々しい。僕は、君の記憶から消えたいと思ている。かつて君の記憶に在ったログも全部消して、僕は思い出されないような人間になりたい。今を一つ拾うたびに、僕の存在など早く優先的に掃き出して、それでこそ相手は幸せであり、自分も納得なのではないだろうか。
本当の罪人のたった一つの願いなんて、「君に幸あれ」くらいではなかろうか?

2. 「行かないで」について

背中を向けて歩き出す「君」に対して心の中で「行かないで」と子供のように叫ぶ僕。

その映像が僕の振られたときの記憶と交錯して、「僕はきっと『行かないで』と心の中で叫んだ」という偽の記憶が生成されていた。第 1 章で述べたような連帯感は、このように音楽と自我の過度な同一化によって実現されていたものであった。

僕は、どう思ったのだろうか。
そこで数年越しに僕は思い出す。当時「良かった」と心の中でほっとしたということを。実際にそれを呟いたかもしれない。
「良かった」。何が良かったのだろう。自分の加害性がもう相手に及ばないで済むこと、あるいはあのひとが変な束縛や名付けから解放されたこと、あるいは自分が解放されたこと?一息をついて、もうこれからあとは自分の人生を送るだけだ、と安心してから、僕は安心して教室で泣き、安心してその後の人生をぶち壊すなどしてきた。

あれほど解像度高く記憶していた振られというイベントを、時間が経てば自分も音楽への共感に倒錯されてしまうのか、と思わせられた。

疑念と結論

「行かないで」という叫びと「良かった」という安心、その背景にはどういう違いがあったのか考えると、とてもクリティカルな疑念が浮かんできた。

「Y は、実際はさほど『罪を重ねて』いないのではないか」

「行かないで」と子供のようにひたむきに思えること、君との未来を「理想の未来」と確信してリフレインさせていること、「君の記憶に居させて」と願う心、それらの言葉の濁りの無さが僕とは大きく異なるのである。

そもそも僕は共感したい一心で勝手に共感していただけだったのである。しかし、贖罪に対する認識の違いに引っかかって改めて歌詞を咀嚼してみると、全然自分のケースとは異なっている(そもそも人間の生き方なんて多様すぎて、再現性は基本的に低い)。

ほら、そもそも僕は(サムネのような)指輪を持ったりするような人生経験を持っていないじゃん。なんておこがましい共感をしていたのだろう。

変わらない気持ちでまた出会えたら良いね
そして手を繋ごう
そのときまで
「またね」

piapro(ピアプロ)|オンガク「from Y to Y」

ラスサビ後の最後の歌詞である。結局は自分の国語力の問題だった。「また出会えたら良いね」なんて素朴でひたむきで、歪みのない気持ちなのだろう。最後のコードは IV - I という大きな流れで明るく落ち着いた終止になっているだけある。特に何かがあったわけではなく、不本意で離ればなれになってしまう、というだけという可能性も十分にある。

勝手に中盤の歌詞を過大解釈して、自分のケースに落とし込み、記憶をすり替えてまでして、「この曲、刺さったわ~~」という絆創膏を自分で錬成しようとしただけだった。

それにしては、随分と救いようのない大げさな言い方で固めてくれるな、という怒りが次にこみあげてきた。ここまで考えると、「数え切れないほどの罪」が自分の中ではとても違和感がある。そちらの罪と僕の罪でバトらせてみてはいかがだろう?そっちの「数え切れない」が可算無限のことをいうんだったら、きっと僕のは ℵ_1 だ。非可算無限の罪をなめるなよ。

Y はきっと僕と違ってまともな人なんだろう、と思う(謎の上から目線)。特に悪いひどいことをしていないで、不本意な別れをすることとなり、それでも悲しさに暮れて架空の自責を生やして、大げさにも自分の罪として歌った。「君」にその歌が届くはずもないし、ありもしない罪が償われるはずもないのに。

それに対して僕はどうか。僕は実際に「君の隣でそっと生きようとし」、「数え切れないほどの罪を重ね」、ただそれだけでこの曲に食いついて、勝手に共感を寄せ、音楽に偽記憶を植え付けられ、落ちていく涙をカタルシスと感じて気持ち良くなっていた。結局僕は「from Y to Y」を理解することなく、それを自分の涙活の道具に失墜させた。そんなことをしたところで、僕は罪を償うことができないし、前に進めない。

さて、僕の道はまだまだ長いようだ。4 年目もなんとか生き、贖罪の方法を探すなり、孤独の鎮痛剤を探すなりしよう。

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