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【あらすじ】

2024年、東京オリンピックが大失敗した日本では奇妙な社会現象が起きていた。各地で『炎で描かれたスマイリーマーク』が噴出し、SNSで膨大に拡散され続けるのだ。笑顔の仮面をつけた『匿名』の人々が、気軽に、ただシェアするために火をつける。有名人、ネット炎上した企業、口の軽い一般人、その標的は無差別。犯人も不明。ただ、お遊びのように炎がつけられ、SNSでのリツイートを誘っていく。『匿名』の人々は、自分たちを"バックライト"と名乗った。

そんな中、都内の高校生『一ノ瀬 優』はある日から生放送を開始することにする。カメラに向かい、優は宣言する。

「これから僕は"バックライト"を皆殺しにします」


【STAGE0:Fire in the HOLE】


画像1


燃えよ、燃えよ。
ただ静かに、ただ、燃えろ。

燃える怒りに身を任せ、爆ぜる火花に魂をくべ、燃えろ、ただ、燃えろ。
帳の落ちる暗闇に、赤く、紅く、滾る炎を煌々と照らせ。暗闇を払い、光を満たせ。それが世界を明るく照らし、世界の人々に、幸福な狂乱をもたらすだろう。

例えそれが
憎しみの炎であったとしても

ーーーー2024年6 月17 日@Good_MAN

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こんな世界はクソだね、と友達が言っていた。

幼い頃の一ノ瀬 優はそんなこと少しも思わなかった。幼心に、友達がそんな風に思う理由がよくわからなかった。理由はよくわからなかったが、言っていることは少しだけカッコイイなとも思っていた。

そのころ住んでいたのは、つまらない、さびれた団地だった。まったく空虚な場所で、たまに布団たたきの音がするくらい。時々子供の笑い声がしていた。優はそれをずっと遠くで聞いていた。

ずっとずっと遠くで、聞いていた子だった。

優は名前の通り、いつも優し気に微笑んでいる子だった。誰とも話さず、誰とも遊ばず、たった一人で積み上げた積み木を突き崩す、ただそれだけの遊びをしている時でも、優の口元は持ち上がっていた。それは母の自慢の一つで、親せきが集まる席では取りつかれたようにその話をして回る。親せきたちも「まぁ、笑顔が移っちゃうわね」なんて笑っていた。しかし、それは年を重ねるごとに引きつった笑顔に変わっていった。

優は微笑んでいるだけだった。
声をあげなかった。

ただずっと、月明かり差す水面のような瞳で、口元だけをもたげている子だった。

保育園でも、学校でも、通学路でも、道端で腐り果てる猫の死体を見つめる時も。
その瞳は変わらず静かで、その口元はほのかに微笑んでいた。
中学生のころには誰もがそれに気づいていた。誰かが言い始めたわけでもない噂が広まり、誰かが口にしたわけでもない非難の言葉が彼を取り囲んだ。奇異の目、非難のささやき、なぜかほくそ笑む級友たち。
こんなおかしな尾ひれまでついた。

あいつの母親はガイジンと結婚してから離婚した。人間離れした顔はそのせいだ。でも人間離れしてるのはそれだけじゃない。

あいつの親は吸血鬼。
だからあいつも、吸血鬼。

「この世界はクソだね」


今では誰も本気で言わなくなった言葉を、どこかで優はつぶやいた。どこで言ったのかは覚えていない。だけど、口にしたことだけは覚えている。

この世界はクソなんだ。
本当に、残念なことに。


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いつ頃からか知らないが、ツイッターでこんな動画が広がった。
どこともしれない学校の校庭で、燃え盛る『ニコニコ』と笑う笑顔の炎。いつもは我こそが主役とふんぞり返っていた校舎をバックステージに、踊り狂う笑顔の炎。それは一晩のうちに校舎から消えた机に放たれた火だった。
妙な動画だった。大人たちはかつて世間をにぎわせた似たような事件をあげつらった。そして声高に若者たちへの共感を叫んだ。これはきっと子供世代から大人たちへのメッセージなんだ! 炎は彼らの怒りなんだ、そう彼らは鬱屈している…情報社会が世界を狂わせてなんとかかんとか…

「ええ~! やば、うちの近くなんだけど」
大体どこの高校でも、当の高校生はこんな会話をした。
「あ~ちょっと見に行けばよかったな~」
「見てどうすんの?」
「いや、別に。なんかわかんないけど、笑えるじゃん」
そしてホームルームは終わり、担任のいつもと何が違うのかわからない『今日のお話』を聞いて、あとはお決まりの日常に掻き消えていった。もちろん、大人はわかったような顔してこの話題を忘れた。なにも解決してないが、それこそ犯人すら捕まってないが、それでこの動画の話題は消えた。日常に不意に落とされた、それは小さな小さな炎にすぎなかった。結局、その程度の話だったのだ。

この時は、まだ。


ある日、また笑顔の炎は現れた。
つぶれた遊園地の跡地に広がった、笑顔の炎。
赤錆でできたような寂れた工業地に放たれた、笑顔の炎。
世界をまたにかけた巨大企業のビルはある晩一斉に照明が掻き消え、一瞬の空白の後に笑顔の形に照明が灯った。
誰もが生きている日常の隙間に、突然笑顔は現れる。そのたびにーー

炎は燃え広がったのだ。


EXTRASTAGE 【ストーリー1: stage 1】


 寒々しい風が吹きすさぶ、ビルの屋上。

「ガソリン、魔法陣みたいに撒かない?」

 眼下には繁華街の煌びやかな光が溢れているのに、夜空には星一つない。
 その夜陰に乗じて、コンクリートの床を蹴り飛び出してくる四人の影。

「その考え、グッドだね……っ」
「グッド! グッド!」

 人影は手すりまで駆けてきて、未だ平穏な都会の夜空に地平線まで目を凝らした。手に手に液体の入ったポリタンクを持ち、夜のプールに忍び込んだ少年達のようにクスクスと笑い合う。

 その顔は、マスクに覆われている。

 それぞれ、『ゲームのマスコットキャラのお面』『フルフェイスヘルメット』それに『顔を描いたバラクラバ』と、思いつきで買ってきたようなもので顔を隠す。ひとつだけ、共通点があるとしたら

「はははは……」
「ふふふ、それってさぁ……」

 全員の口元が笑っている。
 それは仮面の下から声を漏らす口元ではない。マスクだ。顔を覆ったマスクは、皆一様に薄気味悪い笑みを浮かべていた。フルフェイスマスクには口紅で笑顔を描き込まれ、バラクラバには歯をむき出しにするガイコツの描かれている。マスコットキャラのお面は口元だけ切り裂かれ、少女の小さな唇がずっと口角を上げ続けている。

「火、誰がつける?」
「その話はグッド。僕つけてみたいな」
「それは萎える。あたしがつけたい」

 ふざけた面構えで、眼下から立ち昇る光のハレーションを楽しそうに見下ろしている。照らし出される、場違いな役者(キャスト)達の笑み。

 爆音が轟いた。

 夜空に花開く炎の柱。夜の帳に隠れていたビル群を明るいオレンジで照らし出し、黒煙と共に黒い雲へと伸び上がる。

 直後、衝撃。
 空気が金切り声を上げ、屋上は大きくたわむように地平を揺らした。

「……来たっ、来たぁぁぁーー‼︎‼︎」

 屋上で人影が歓喜に踊る。拳を振り上げ、遠くに炎上するビルを花火でも眺めるように見つめ、飛び上がって喜び合う。

「ツイストで予告した通りだ!」
「みんな上手くやったんだねっ」
「僕らも負けてらんないよ!」
「その考え、グッドだね!」

 人影は手早くポリタンクから液体をばら撒き、ビルの屋上に黒い染みが広がっていく。辺りにはガソリンの乾いた刺激臭が充満し、その間にも周囲の夜空には次々とビルから立ち昇る炎が煌々と点っていく。

「ライターは?」
「ここにあるよっ」
「ちょっと気が早いよ。グッドマンが言ってたろ? 火をつける時はちゃんと離れろって」
「こっちに下がろ! こっちこっち!」

 遠くで上がる悲鳴と喧騒は彼らにとっては無関係で無意味な雑音で、もはや耳にも届いていないようだった。打ち上げ花火に点火するのと同じ気軽さで、彼らは都心の夜を炎で焦がすのに夢中になっている。
 背後から足音。
 四人はその奇妙な笑顔を見合わせた。
 ゆっくりと、彼らの並びを裂くように、背後へと振り返る。
 遠くでまた一つ、爆炎が上がった。

 立ち昇る褐色の炎を背負って、墨のような影が一つ、屋上に立つ。

 陽炎のように揺らめく姿は、黒のミリタリーパンツに黒のフードパーカーを被っていて、背負ったバックパックから伸びるベルトが身体をきつく締めつけていた。
 うつむく顔だけは、明るい炎にも陰ったまま。

「……なんだよ、お前」
「やめなよ、グッドフレンド」

 お面を被った男が一歩踏み出すが、フルフェイスヘルメットを被った女が制止する。

「グッドマンは言ってた。全ての人々は潜在的同士だって」

 バイザー越しの目を、墨のような影に向ける。
 誘うように手を伸ばし、優しい声でささやく。

「君もバックライトのメンバーなんでしょう。グッドフレンドになりたい、今はまだ『普通でしかない人』なんでしょう? 怖がらないで、私たちと一緒に行こう」

「グッドフレンドの言う通りだ」

 バラクラバをつけた男が大きく腕を広げて

「僕らは仲間を歓迎する。フードパーカーの君よ!  笑顔を見せておくっ」

 最後の鼻濁音は意図したものではなかった。
 その言葉が途切れると同時に、鉄が砂を噛むような音がして、飛び散る液体音が床にばらまかれた。
 仲間たちが、音の方へと振り返る。顔面にバールを突き立てられたバラクラバの男が、奇妙な声を漏らしながらグラグラと首を揺らしていた。
「あ、い……」
 喉から吹き出る声は形を成しておらず、鼻頭から突き立てられたバールの隙間から、こぽこぽと赤い泡となって吹き出していた。バールから伸びる線を追って、その場にいた誰もがフードパーカーの男を見た。
線の先端は男が手にしたクリッカーにつながっていて、男がスイッチを握りこむ。

 また、近くのビルで真っ赤な炎が上がった。
 それよりも、ずっと真っ赤な血しぶきがあがり、バラクラバの男の頭が弾け飛んだ。

 轟く炸裂音、血しぶきが床に叩きつけられ、砕けた骨が欄干にあたって空虚な音を立てる。残された首と身体が、できの悪いゾンビ映画のようにビクビクと痙攣して立ち尽くす。

死体はそうして、血だまりの中に倒れこんだ。

「――――っ」

 残された三人は声もあげずに弾かれたように駆け出した。
 向かう先は屋上からビル内へつながる階段。最初に飛び出したのはキャラクターのお面を被った男だったが、視界の外から獣のように迫る影に脚をかけられて地面に転がされた。うっと息を詰まらせ立ち上がろうとし、直後、バールを高々と掲げたフードパーカーの男と目があった。
 口許を覆う食いしばった鬼面。
 その上にある二つの相貌が、おかしそうに笑っていた。
「やめ――!?」
 抵抗しようと伸ばされた手のひらごと、仰向けに転がった男の胸に歪曲したバールが叩きつけられた。

かひゅ、と穴の空いた肺から空気が漏れる音がして、直後あたりに青白い閃光が撒き散らされた。鬼面の男が腰裏に巻いた小型電気溶接機が放つ過大な電力はバールから犠牲者の体を伝ってほとばしり、青白い光と共に突き刺した肉体を爆散させた。
 ビルの非常階段を二人の男女が転がるように駆け下りていく。
「――あれ誰!? 誰!? 誰!?」
 フルフェイスへルメットを被った女が半狂乱の金切り声をあげる。
「待って! 待ってよ! ちょっと待ってって!」
 あとに続いたお面の男は涙ながらに引き留めた。先頭を行く彼女とはおよそ一階分の距離があり、その間には恐ろしいほど残酷な一線が引いてあるような気がしたのだ。
「あっ!?」
 男は一瞬足をもつれさせ、螺旋階段の壁に体を打ちつけた。
フルフェイスの女がふり返る。

 黒い影が、お面の男に覆い被さっていた。

 影は凄まじい早さで手すりを滑り降りてくると、勢いそのままに襲いかかり、お面の男の顔面を膝でたたきつぶした。その様はスローモーションのようにはっきりと、見上げる女のヘルメットバイザーに映し出された。鼻から噴き出す血、めりめりとへし割られる頬骨、歯茎が縦に割れてにじみ出す黒い血、人間の顔が驚くほど小さく折りたたまれていく。
「あ、あああ…」
 男の顔からはお面が剥がれたが、それが顔だと認識できる者はもう誰もいないように思えた。這いつくばる姿はまるで化物で、それをゆっくりと歩いて追い詰める鬼面の男は屠殺人にしか見えなかった。相手を生き物だと思ってもおらず、命を奪う覚悟だけだがある。

 ビルを飛び出したフルフェイスヘルメットの女は、客待ちをしていたタクシーに飛び乗った。
「あ、ちょっと……お客さん困りますよ。一応順番があるんで先頭のに」
「いいから行ってッ! 行け!!」
 剣幕に押されて、運転手はいぶかしげにハンドルを握った。ほとんど強盗にでもあったようなものだ。とにかく刺激しないように車を走らせる。
「……どこに向かえばいいか、教えてもらえます?」
 車がゆっくりと走り出しても、女はヘルメットを脱ごうとしなかった。ごしごしとバイザーをこすり、呪詛のような言葉を吐くだけだ。運転手は心中まいるよなぁ、とボヤいた。色んな客を乗せたことがあるが、これはいわゆるサイコさんって奴だろう。
運転手は嘆息まじりにアクセルを踏む。一番面倒なタイプだ。駆け込むなら警察じゃなくて病院か。
「なにやってるのよッ!?」
 突然女が身を乗り出してきた。ギョッとする間もなく
「なんで止まるの!?」
「いや、渋滞ですよ」
 運転手はすっかり迷惑そうに
「あちこち急に渋滞になってね、ネットだと、どっかのバカがビルに火をつけてまわってるらしくて、バックライトとか言う連中ね。あれはホントに困った連中……」
 そこから先の運転手の言葉は、たわんでいてよく聞こえなかった。

 女のバイザーには、映っていたのだ。

 はるか彼方までつづく、都会の隙間にできたほんの一瞬だけの車の列。青信号になっても車は進まず、ただクラクションだけが鳴り響く。そう。クラクションだって鳴らすはずだ。道の真ん中に立ったフードパーカーを着た男が、バールを手にして車に駆け上り、天井を伝ってゆっくりと歩いてくるのだ。

「……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 耳障りな呼吸の音。こもった熱が女のヘルメットに渦巻く。迫り来るフードパーカーの男。次第にその脚は早駆けを始め、狙った獲物へと確実に距離を詰める。心臓が早鳴りを始め、内臓が緊張感に引きしぼられる、瞬きを忘れた瞳が乾いて痛み、震える唇はあ、あ、と言葉未満の本能のカケラをこぼす。あ、逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ、殺される。

ころされる



「な、なんだこいつ……わぁッ!?」
 ギラつく街のネオンを、黒い影が切り裂く。
 高々と跳躍し、振り上げたバール。
フロントガラスに走る放射状のヒビ、吹き出した血がガラスを真っ赤に染める。
また、遠くで炎の柱が吹き上がった。

 あちこちでクラクションが鳴り響く。駆け巡る消防車や、緊急車両の警報、炎に巻き上げられた風が、ビルの隙間を縫ってごうごうと大気を揺らす。
 フロントガラスに花開いた紅い液体を見下ろし、フードパーカーの男はゆっくりと身を起こした。 

 仮面の下、大きく息を吸って――



 息を止める。

「あーこういったテロの頻発にドーピング検査の不備、各国選手の放射能汚染に担当相の失言からのオリンピック開催中の解散総選挙、さらに開催後のエボラ出血熱の流行などから、我が国で行なわれた東京オリンピック。これが世界中でどう呼ばれとるか? みんなもニュースなどでよく聞く通り……」

東京オリンピック、大失敗!!!

黒板にデカデカとかかれた現代社会科教師・岡崎の言葉に、生徒たちはのんべんだらりとした目を向けて誰一人としてペンを動かす者はいなかった。

「……俺はなぁ、悔しい! 大人として!!」

それでも構わず岡崎は激しい教鞭をとり始めた。教卓を叩いて口角から泡を吹きながらいったいこの事態がどれほどの悲劇なのか、君たちの将来にどれだけの禍根を残すのかについて熱く熱く語りかける。 こんなに世界からの信用を落としたこの国を、この日本を、君たちに託すしかないこの身が、どれほど憎いことか!!!!

季節は五月
でも気温は31度

クーラー、つけてくれ

票を取らずともわかる。生徒の思いは誰もが全会一致だった。

ぐったりと机に突っ伏し始める生徒たち。
その中で、一ノ瀬 優だけは涼しい顔をして窓際の席から空を眺めていた。
涼しい顔で、息を止めていた。

▪️

「…じゃあ他に修学旅行の班、組んでない奴いないなー?」
 言いたいことを言って満足した岡崎は、4時限目終了間際にそんなことを言い出した。気軽な調子で教室を見渡す。

修学旅行

うるせぇなオッサン、さっさと昼飯食わせろよ四限終わったろがよ、という私立成華高校の一般教養クラスの空気は、その瞬間少し浮ついた。

 なんといっても修学旅行だ。
 あと一ヶ月後に迫った修学旅行先はグアム。誰もが期待に胸躍らせている。

「買い忘れなど無いようにな。直前に買いに行っても無かったって奴が毎年必ず――」

 岡崎のうだるような声をBGMに、生徒たちはガヤガヤと修学旅行について一斉に喧騒をあげはじめた。

一ノ瀬は窓を見ていた。
息を止めたまま。

 色素の薄い茶色がかったミディアムヘアー。三白眼気味の目。光彩の色が薄くて灰色がかっている。そのせいでいつもほほ笑んでいるつもりなのに、口を開く前から周りに冷たい空気をまとう。世代を遡るとコーカソイドの血が混じっているらしく肌も白くて、まるで酷薄な吸血鬼のよう。実際子どもの頃から今までずっと、陰口をたたかれる時の隠語はたいてい「伯爵」か「ドラキュラ」のどちらかだった。
「女子は生理用品も用意しとけよー。……なんだ、柏木その顔は? 俺だって言いたくて言ってるわけじゃないんだ。でも毎年騒ぎを起こす女子生徒がいるんだよ」
 脳から酸素が失われる感覚をじっくりと味わいながら、一ノ瀬は身動き1つせず、窓の外を眺め続けた。
 ある時期から、息を止めると存在を消せるようになった。
もちろんこれは思い込みだ。
だが、元々存在感が希薄で、余計な動作を一切しないのもあって、本当に透明人間になったんじゃないかと思うほど存在を認知されないことが何度もあった。きっとタイミングやバイオリズムがぴったり合えば、本当に最初からいなかったかのように、この世からひっそり消え去ることもできる。一ノ瀬はそう信じている。
「じゃあホームルーム終わりな。午後の授業は情報処理室でやるから、まちがえないように…」

「先生」

 一ノ瀬と対角、教室の入り口の方で手が上がった。
「気づいてないでしょ」
「あ? なにがだ、水無瀬」
 すっくと立ち上がった少女は、ブレザーの上からでもわかるくびれをひねり、長い緋色の髪をかき上げた。艶々した髪が揺れると、男子がどよ、と湧く。
 水無瀬 衣乃。
 5月に有名ファッション誌で二面ぶち抜きのストリートスナップを撮られて以来、芸能科への転身が噂される生徒だった。つんとすました鼻筋、なめらかな曲線を描く顎を微かにあげて、切れ長の瞳の中で大きな瞳を輝かせる。品のいい黒猫か、あるいは男を何人か殺してきたと言わんばかりの表情を作るガールズロックバンドのボーカルのようだ。例の雑誌に載せられた写真も下卑た連中を寄せ付けない自信満々の表情で、誌面を眺めた男子は揃って神妙な面持ちだった。人類を罰しに来た天使だろ、と誰かがボヤいていたが、それはいつの間にか彼女を的確にあらわす代名詞として男子の間で交わされる隠語となっていた。
「一ノ瀬くん」
 天使が紡いだソプラノの声が教室に響く。
 息を、そっと吐いた。
「彼、まだ修学旅行の班に入ってません」
 緋色の髪を揺らして、衣乃がこちらをふり返る。
 切れ長の目の中で大きな瞳が踊っている。
 瞳に映る一ノ瀬は、三白眼の細い瞳孔で空っぽな微笑みを浮かべていた。
「んん? 一ノ瀬、一ノ瀬……」
 岡崎は担任という肩書きにあるまじきことに名簿に何度も目をしばたかせながら、「おお、いるなそんなやつ」と口の中でモゴモゴとぼやいた。
 衣乃はじっとこちらを見つめている。
しかし教室中の目は逆に衣乃に向かっていた。男子はうすい唇や柔らかそうな頬、それに姿勢の良い彼女が胸を張る様子にじっと目を凝らしていた。女子は衣乃がなんと言うのかよく観察していた。彼女が放つ一言一句が、教室でのヒエラルキーを左右する。今はそういう状況だった。
「一ノ瀬くん、そうよね?」
「そうだね」
 空虚な笑みを浮かべたまま、一ノ瀬はうなずいた。
「……自分から言わないと、ダメじゃない?」
 衣乃の口元は笑っていたが、目はまったく笑っていなかった。
 衣乃とは1年でクラスが同じだった。衣乃は投票多数で委員長に選ばれていて、最初はクラスの誰にも優しく接していたが、1年が終わる頃には、"一ノ瀬以外の"誰にも優しく接するようになっていた。衣乃はなんでもこなすし、なんでもしっかりと取り組む。解決できなかったのは、一ノ瀬のクラスに馴染もうとしない態度だけだった。
 一ノ瀬は教卓に顔を向けた。
「僕は修学旅行には行きません。積立金も払っていませんから」
「おぉ、そうなのか? あぁ、うん、まぁ……いや、今からでも一括で払えばまだ間に合うぞ」
 岡崎はクラスの全員が行くことに意味があるんだという趣旨の話をその後五分間にわたり話し続けたが、待たされる他の生徒と一ノ瀬の間の溝がまたさらに深く刻まれていくだけだった。そもそも衣乃が指摘しなければ存在も忘れていたくせに…とクラスの半数は思っていたし、一ノ瀬は定期的にこういうめんどくさい事態を引き起こすよな、とクラスの全員が思っていた
「先生、もういいですよ」
 衣乃は小首をかしげ、微かに笑みを浮かべていた。目は笑っているが長いまつ毛の間から瞳がのぞいている。
「クラスの輪に入れない人もいます。入れない人に入れって言うのって可哀想だもん」
 クラスの誰もが彼女の『微笑み』に深くうなずいた。
 誰も「そもそも言いだしたのはお前だ」とは言わなかった。一ノ瀬も。
「うん、まぁ……そうかもな」
 岡崎に至っては「無理言って悪かったな」と軽く頭を下げたくらいだった。一ノ瀬はほほ笑んでうなずいた。
 昼休みのチャイムが鳴って、この問題は結局うやむやになった。さすがに息を止めたくらいでは完全に透明人間になれるわけではないらしい、と一ノ瀬は窓を眺めながら自分の思い違いを反芻した。
 彼のツーブロックの後頭部を、衣乃はじっと見つめている。

「今日、新宿でなにかが起こる…!」
 昼休み、伊乃の向かいに座った霧島は妙に真面目くさってそう言った。
 伊乃は姿勢良く箸を口に運びながら
「また都市伝説の動画でも見たの?」
 衣乃はほとんど目をつむっていた。お弁当をつつく仕草も、日本舞踊のように指先まで所作が行き届いている。
「違う違う、コレコレ」
 霧島は眼鏡を輝かせながら、スマホを差し出す。紙パックの紅茶から唇を放し、伊乃は姿勢を崩さず視線だけで画面に目を落とす。


今日、新宿でなにかが起こる……!
世界がバックライトを脅かす時、バックライトはささやかな抵抗をする。それが今日だ。
みんな、グッドフレンズに祝福を。――――2018年 6月17日 @Back_light


「あぁ……」
 伊乃は興味なさそうに瞼をわずかに落とす。
 隣に座った柚葉が二つ結びの子供っぽいおさげを慌てて揺らし
「水無瀬さん、バックライトっていうのはね、『ゆるいテロリスト』なんだよ? 知ってる?」
「ユズ〜、そんなんでわかるわけないだろ。説明下手すぎでしょ」
 霧島が呆れて目を細め、柚葉は身をちぢ込めた。他の女子がけらけらと笑った。
 柚葉はこの『お弁当グループ』に馴染んでない。衣乃が所属する以上、グループはクラスでも『最高』だとみんなが認識しているが、性格的に無理な子が所属すればついていけなくてすぐに脱落する。柚葉は自信がなさすぎる。霧島は自由奔放な性格なので、ちょっと奔放な物言いをするとすぐ柚葉は萎縮する。
「霧島さん、やめたげて」
「だって説明下手だし」
 柚葉は悲しそうにうつむき、衣乃は一瞬それを見た。
「…そんなことないわ。"バックライト"のことは私も知ってるし。国会議事堂をイルミネーションで飾ったり、ゲーム会社の窓にゴルフボール打ち込んで全部割ったりしてた人たちでしょ」
「しゅ……」
 柚葉は下から窺うように視線をあげて
「趣味、悪いよね〜……」
「そう?」
 返事をしたのは霧島だった。
「私は結構スカッとするから好きだけどね。私もやってみたいなー窓ガラス割るゴルフ」
 霧島はシュッシュッと見えないゴルフパッドを振りまわし、柚葉をさらに怯えさせる。
 衣乃は小さく嘆息し、スマホの画面に視線を逃がした。

――――@Back_light(バックライト)

 "バックライト"は五年くらい前から現れた。
 自分たちを「自由民」と呼び、妙な騒ぎばかり起こし続けている。
 自由や平和を掲げる連中には変な奴しかいない。幼い頃から大人に囲まれる生活をしてきた衣乃はそう信じている。バックライトもその点は同じだ。
 カルトみたいなものだ。深層ブラウザの限定的な掲示板に集まったユーザーが始めた遊びが発祥で(この辺は意味がわからないがとにかくニュースでそう言ってる)、活動は意味不明な反社会活動をしてSNSにアップすること。ネットで炎上した政治家をシールにして街中に貼ったり、不祥事を起こした会社に低評価マークをペイントしたり、タレント事務所の枕営業メールを暴露したり(この騒動は知り合いの事務所だったので衣乃も迷惑を被った)、とにかく「遊び半分で社会と闘う」奇妙な連中。

そして最後に笑顔を残す。
ある時は焔の、ある時はイルミネーションの、ある時は廃車に火をつけて
なんのためらいもないスマイリーマークを、誇らしげに残していくのだ。


彼らは顔を晒さない。匿名を武器にして闘う。誰がやったか知れないし、たとえ犯人らしき人物が捕まっても大した続報もなくニュースからいつしか消えていく。その程度の末端しか捕まらない。いや、末端しか存在しないと言ってもいいだろう。
いつからか賛同者は全開の蛇口みたいにじゃぶじゃぶ現れて、今や構成員は2000万人は下らないらしい。日本人口1億4000万人と考えるとすごい数だ。残りの1億2000万人がバックライトの構成員でないかというとそんなこともなく、むしろ普通の、退屈な日常をこなしながらバックライトに所属する主婦や高校生の方が圧倒的に多い。みんな匿名の仮面をつけて気が向いた時に街に火をつけたり政治家にロケット花火を撃ちに行ったりする。そして家に帰ればつつがなく家事をしたり明日の宿題に取り掛かったりする。

つまり、2000万人はどこにでもいるし、どこにもいない。

 今日、教室で眠そうに授業を受けていた生徒の中には、ネットで迂闊な発言をした人の住所を特定したり、不倫報道された芸能人の事務所に爆発寸前のスマホバッテリーを山ほど送りつけたりしている人がいるかもしれない。

 バックライト。おかしな連中だ。
 主役がいないステージを照らし続ける裏方が、2000万人もいるなんて。

「もしかして、霧島さんってバックライトのメンバーじゃないの」
 いつまでも見えないゴルフパッドを振る霧島に、衣乃はソプラノの声で注意した。もちろん冗談だが、霧島はずぃ、と身を乗り出し「そう思う?」と挑発的な笑みを浮かべた。
 衣乃はむん、と身を乗り出し
「思うわ」
「おっぱいおっきーねー」
 霧島の指先はピンポイントに突端へ命中した。
 衣乃は変な悲鳴をあげて飛び上がった。クラスの男子がガッツポーズと共に立ち上がり、霧島に喝采を送る。両手を挙げて賞賛に答える霧島に、衣乃は胸をぎゅっと押さえて立ち尽くす。頬が紅くなるのを感じるのをぐっと歯がみして、切れ長の目できっとにらみつけた。
「衣乃ちゃん、ちょっといい?」
 霧島の頭に拳を当ててぐりぐりしていると、傍らから声をかけられた。
 セミロングの黒髪を揺らし、副委員長の鷹野が立っている。
 色白、ロングの黒髪、和服を着ればさぞ色気がにじむだろうなと思わせるたたずまい。鷹野は16歳と思えないほど薄幸で妖艶だ。濃いまつげの下の目は湖畔のように美しい光をたたえているが、今の依乃には獲物を狙う爬虫類のように酷薄だと思えた。誘惑する悪魔のように生気がない。
「頼みたいことがあるの」
 クラスの耳目が集まり、さっきまでの騒ぎはわざとらしい喧騒に変わった。みんな衣乃と鷹野の一挙一動を目の端でとらえている。
 衣乃が雑誌に取り上げられるまで、鷹野ずっと委員長をやっていた。今、委員長は立候補もしていないのに衣乃に替わっている。委員長を選ぶだけの多数決が人気投票だとしたら、鷹野は独り占めしていた人気者の座を転がり落ちたところになる。
 メッセージアプリのグループでは衣乃の悪口を長文で書き連ねていたと聞いた。だが少なくとも、目の前の鷹野は涼しい顔をしていた。
 衣乃は黒いタイツに覆われた太ももをぎゅっとつねった。
「……うんっ、手伝えることなら」
「今日、王子君と話してたでしょ?」
 王子、君――?
一瞬誰かわからなかった。ほとんどの人は彼を、「吸血鬼」か「伯爵」と呼ぶから。
「伯爵なら、また一人で窓見てるよ」
 霧島がスマホのディスプレイについたカスでも見るような目で教室の隅を顎で指す。
 窓際の席で、一ノ瀬がぽつんと窓の外を眺めていた。かすかに口元はほほ笑んでいるが、クマが濃くて楽しそうにはとても見えない。色素の薄い茶色の髪が、日射しに透けて揺れている。
「衣乃ちゃん、王子君と仲いいでしょ」
「えっ、私? 全然仲良くないよ」
「でも、私よりよく喋ってるよ。私、見てるから」
 衣乃は作り笑いの下で唇をもごもごさせた。
「私も衣乃ちゃんみたいに、王子君と仲良くなりたいな」
 衣乃ちゃん。
ちゃん付けがすごくわざとらしい。
「……メッセアプリのID、訊いといてあげよっか?」
 期待されていることにさっさと応えることにした。
 高野は笑った。衣乃も笑った。
 一ノ瀬はほほ笑んだまま、心を窓の外に投げ捨てているようだった。

「一ノ瀬君」
 放課後の教室。誰もいない窓際の席でタブレットを眺めていた一ノ瀬は、即座に深層ウェブにアクセスしていた端末の電源を切った。
 見上げると、緋色の髪を揺らして、水無瀬 衣乃がこちらを見下ろしていた。口元は笑っているが、切りそろえた髪の下で陰った目が笑っていない。
瞳の中だけで一ノ瀬は微笑みを浮かべ
「うん」
「……修学旅行、どうして行かないの? 宗教?」
「行かないって僕が決めたからだよ。宗教はよくわからないな」
「お父さんとお母さん、なにか言わない?」
「言わないね」
「あれでしょ? お父さんとお母さん、宗教にはまってるんだ」
「どうかな。僕にはわからない」
 会話はそこで終わった。
 衣乃も一ノ瀬も笑っていない微笑みを浮かべたまま、17秒間だまり続けた。
 衣乃のスマホがポケットの中で揺れた。
「……一ノ瀬君」
「うん」
「いつもタブレットでなに見てるの? 空見るか、それ見るか、どっちかしかしてないよね」
「ネットサーフィン」
「すごいね、誰にでも当てはまるような答えばっかり、よく思いつくね」
「うん」
「良い意味でね」
「そうだね」
 22秒の沈黙。スマホのバイブレーション。
「……あーもぅ!」
 衣乃はいつも張っている胸を一際大きく張ると、ばさりと緋色の長い髪を振り下ろして、一ノ瀬の耳元に唇を近づけた。
「メッセのID、教えなさいよ」
「どうして?」
「高野さんに頼まれてんのよ。あんたのID教えないと、グループに『衣乃さんってパパ活してるんだって』とか書き込みかねないんだから」
 スマホがぶんぶんと連続してうなりだす。
「……今も教室の入り口から取り巻きと一緒に私を観察してる。早く教えて」
「グループってなに?」
「ぼっちのあんたに言ってもわかんないでしょ」
「パパ活って?」
「売春のことよ。早く」
「なんの話だっけ」
「ID」
「それは無理だね」
 依乃の天使のような目つきが悪臭を嗅いだ野良犬のようにひくついた。
 机に拳を叩きつけたい気持ちをタイツ越しの太ももに押しつけた。
あ、これ、跡が残っちゃうな。
「そんな頼み、断ればいいのに」
「あんたなんかに言われたくない。友達いないくせに」
「『面倒事を押しつけてくる人』のことを友達と言ってるの?」
「私、あんたのこと嫌いよ。一年のころもずっとそんな態度で、私の努力を無駄にした。面倒なことになるから早くして」
「毎日"友達"の愚痴を日記に書くくらいなら、クラスに馴染もうなんて思わなければ良いのに」
 机に手のひらを叩きつけた。
誰もいない教室に、鈍い音が鋭く響き渡る。廊下側の窓がビリビリ鳴って、あとには張り詰めた静寂だけが残った。
「なんであんたがそんなこと知ってんのよ――!!」
 一ノ瀬のタブレットから着信音が鳴った。デフォルトの、無味乾燥の音だった。
「僕も日記、つけてたことあるから」
 それじゃ、と一ノ瀬は立ち上がった。なにが"それじゃ"なのかわからない。一ノ瀬は何事も無かったかのように微笑みを浮かべたまま、荷物をまとめて教室を出て行った。
「……意味、わかんない」
 衣乃はクラスの誰にも見せたことのない顔で、呟いた。鋭い八重歯を唇に刺す。

 水無瀬 衣乃はプライドの高そうな顔をしているが、そのくせ積み上がった高いプライドはガラスでできている。倒れたら砕け散るもろいプライドだと思う。
 だからなんとかして穏便に済ませたかったのに、彼女はいつまでも突っかかってきて最後にはプライドごと拳を机に叩きつけて自ら砕け散った。
 それはいかにも彼女らしいケリのつけ方だと思う。

 下駄箱から靴を引っこ抜き、運動場を横切る間、一ノ瀬は一連の出来事をそう結論づけた。夕方の陽光が運動場を黄金色に染めていた。吹奏楽部の這うような演奏が風の乗って少し火照ってきた空気に踊る。
「悠……ま、待って!」
 二つの長いお下げを揺らして、運動場から陸上部員が近づいて来た。
 ウサギのような大人しそうな顔つきに、精悍なアーモンド型の瞳。七分丈のスパッツに短いシャツを着て、羽織ったウィンドパーカーが揺れるとへそがちらつく。
「待って、待って……みんな、ごめん! 自主練しててっ」
 目を引く真っ白にブリーチした髪を揺らして、彼女はふり返りざま大きく手を振った。二つの長いお下げは真面目そうだが、その髪は白だし、毛先はライトピンクに染まっていた。
「愛莉ー! パンツ見えてるよ!」
 友達の声にあわあわと彼女はスパッツに手を伸ばしたが、「うっそ~!」と冗談っぽい声を受けてまたあわあわしながら不器用そうに眉をつり上げて見せた。怒ると長いお下げが揺れて、ピンクの毛先が夕日に跳ねた。
 毛先の色は、ピンクのスニーカーと合わせたのかもしれない。なにせ愛莉の髪色は二週間ごとくらいでコロコロ入れ替わる。お気に入りのスニーカーを手に入れた時は特に。
 完全に校則違反なのだが、妙に真面目で成績も良いのでなし崩しに黙認されている。
 真面目だが、行き過ぎて強情。小学生から変わらない。
「今帰り? もう帰るの?」
ピンクのスニーカーがパタパタと隣に追いついた。一ノ瀬は笑みを正面に向けたまま
「うん」
「陸上部、練習やってるよ」
「そうだね」
「陸上部、もう来ないの? なんでやめちゃうの……?」
「やる意味が無くなったから」
「ちゅ、中学の記録に及ばなかったのは気にしなくて良いと思うんだ……! 不調(イップス)って長引く時もあるけど、それって二年も続かないって言うし――あ、待って!」
 愛莉は校門を抜けてもまだついてまわった。最近の部活の様子、スランプだった後輩が今日新記録を出した話、仲間って良いね、みんなで泣いちゃった――一方的にたどたどしくまくしたてる。
「……あ、あのさバックライトの"ついすと"って見てる?」
 引き留める言葉を探し回り、最後には世間話にまでたどり着いたようだった。ついすと……TweetStream。つぶやきを投稿するSNSだ。
「見てるよ」
「今日さ、なんか犯行予告みたいなの出してたよね」
「うん」
「新宿でさ、なにかあるのかな? ホントに何かあったら、大変だよね。許せないよねっ」
 アーモンド型の目を頑張ってつり上げて、愛莉は小さな拳を握って見せた。羽織ったウィンドブレーカーが揺れる。
「うん。許せない」
「! だよね!」
 愛莉の表情がぱっと華やいだ。それから喜々としてバックライトの話題を続けたが、愛莉は突然
「あ、ちょっと待って」
 立ち止まった。
 無視して歩き続ける一ノ瀬をあわあわと見比べながら、愛莉は突然空中に指で線を引き
「るーるー、ルールっ」
 呪文を呟いた。
 それから道路脇の縁石に飛び乗ると、ててて……と走って一ノ瀬の横につく。
「あぶないよ」
「ありがとっ。でもこれ、わたしのルールだから……!」
 へへへ、とばつが悪そうな笑みを浮かべる。愛莉の「わたしルール」は小さな頃からのクセで、よくわからないルールを勝手に自分で決めては、必死にそれを守る。
「ここから落ちたら、今日が終わるまでに三分間片足で過ごさないといけないんだ」
「そうなんだ」
「今日はもう一時間くらい片足立ちしないといけないんだ。授業中は片目をつぶらないと行けないってルールでね、私二時間目の授業でそのこと忘れちゃって」
「大変だったね」
「そうなんだ……わたしの"ルールと罰ゲーム"の話して、変な顔しないの悠だけだよね」
「ごめん。今日用事あるから、ここで」
 立ち止まった一ノ瀬に、愛莉は困り笑顔を向けた。
「陸上部、戻ってよ。みんな待ってるよ」
「戻らないよ。待ってるのは愛莉だけ」
一ノ瀬は知っている事実を話しただけだったが愛莉は鼻先を徐々に沈めて呟いた。
「なんでかなぁ、どうしてかなぁ……」
 少し泣きそうな気配があった。
一ノ瀬はちゃんと返事をすることにした。
「"やること"があるから」

 新宿の大通りにけたたましいクラクションが鳴り響く。
 悲鳴をあげて逃げ出すタクシーの運転手を目の端に捕らえながら、一ノ瀬は窓に突き立てたバールを引き抜いた。渋滞で立ち往生する車の群れで運転手が目を剥いている。
 ずれた鬼面を整える。
 車列の間を縫って、女が恐怖に倒れ込みそうになりながら逃げていくのが見えた。


「フェスのチケット、ありがと〜っ。今日は楽しかったぁ」
思いもしない感謝の念をさらさらと口にしながら、衣乃はスマホに耳を傾ける。緋色の髪が宵闇の風に揺れると道行く男たちが振り返る。鬱陶しい、まとわりつくような視線を依乃は涼しい顔で受け流す。
時間は23時。普段なら課題を終えてベッドでゴロゴロしている時間だった。
一日でもほんのわずかな『自分の時間』を高野とのフェスなんかにささげたのかと思うと、情けなくて悲しくなってくる。
『いいの、全然気にしないで。衣乃ちゃんとは一回行ってみたかったから』
電話の向こうの高野の声は平坦だった。字義通りの意味がこもっているとは思えない。
『あの、王子君のことなんだけど……』
「あぁ、うん。まかせて。フェスのチケット代分、働くよ」
一ノ瀬の勧誘に失敗した直後、鷹野はなにを思ってか急にフェスのペアチケットを渡してきた。なし崩しに会場までついて行ってしまったが、これはつまり仲介料ということだろう。確実にこちらの逃げ道を塞いでくるのは見習いたい狡猾さだ。
『うん。そうしてくれると助かる』
けど……と鷹野は声の調子を変えて
『放課後のあれは……』
「夕方はちょっと揉めたけど、大したことないから。大丈夫。なにかの間違いだから」
思い出すと体の芯がムズムズする気がた。早口で答えてから、いつもシャツの下で窮屈な胸を抱く。
思い返せば、あんなに大声をあげて怒るなんて、自分が思い描く自分自身からかけ離れすぎていて落ち着かない気持ちになる。
あれをちょっと揉めたと表現するのには無理があるとわかってはいたが、高野は一瞬押し黙ってから
「うん、信じてる」
と心にもなさそうなことを言った。
きっと恋する乙女な表情をしてるんだろうな……
依乃は舌をちょろっと出した。"昔はライバルだったけど今は恋を応援してくれる友達'とでも思われてるのかな。うぇ。
電話を切ると、連絡帳アプリを起動した。依乃は失敗を失敗のままに終わらせるのが嫌いだ。子役時代、不調で周りに叩かれた時も依乃は不断の努力で周りを黙らせてきた。失敗は次の成功の予備動作にすぎないのだ。
すでに一ノ瀬の電話番号は入手している。
ツテというツテを使って調べ上げ、ついに中学時代のクラスメイトから聞き出すことに成功したのだ。
もっとも、今も同じ番号を使ってるかはわからないので、念のため確認は必要だった。それに高野が欲しがってるのはメッセのID。電話で話せないような内容もメッセアプリに載せれば気軽にやり取りできるのか、タイムラインでも覗き見してニヤニヤしたいのか。一ノ瀬は既読無視くらい平気でしそうだし、タイムラインなんて更新するタイプとは思えないが、その辺は知ったことじゃない。
「……あんまり気は乗らないけど」
『一ノ瀬 悠(伯爵さん)』と名打たれたページで、青く光る電話番号に指をかける。

「待って! やめてっ‼︎」

悲鳴じみた、鋭い叫び。
顔を上げると、オフィスビルの庭園から地下のショッピングモールに向けて扇状に広がった階段を、フルフェイスヘルメットを被った女が、転がるように駆け下りてくるところだった。


クラクションの喧騒から転がるように逃げ出した女は、フルフェイスヘルメットの下で顔中に涙と鼻水をたらしながら、オフィスビルの庭園にたどり着いた。滑らかな曲線でモダンデザインされた庭園は、ぐるりと巡る舗装された路面に沿って街路灯が照らされている。路面が続く階段の先にはショッピングモール兼地下鉄の連絡通路があるが、営業時間はとっくに過ぎているし、微妙な立地で乗り換えをする乗客もほとんどいない。助けてくれる誰かはいそうになかった。もつれそうになる脚でよろよろと人影を探す。
 こんなはずじゃなかったのに
 こんなはずじゃ
 さっきから同じ考えがずっと堂々巡りを続けている。熱に浮かされる呼吸も、早鐘を打つ心臓も、沸き起こる恐怖と焦燥の前では全てが無意味だった。背後に迫る黒い影の幻影が頭から消えない。誰か、誰か……
 半地下へ続く階段を転がるように駆け下りる。灯りの消えたショーウィンドウが目に入った。立ち並ぶウィンドウのどこかに人の気配があることを祈って、必死に辺りを見渡した。
 足がもつれる。
 転げ落ちそうになって慌てて手をついた。手首をひねって鋭い痛みが走る。階下を見下ろすと、平衡感覚が歪んで見えた。身体を巡る恐怖が、視界を揺らす。荒い息の間に吐き気が込み上げてくる。
 ツバを飲み込み、嗚咽をあげながらもう一度立ち上がる。またへたり込んだら、もう立ち上がれるとは思えない。
 一瞬、視界の端に人影が見えた。
緋色の長い髪が、宵闇の風に揺れている。
「あ、あ、あ、たす、助け」
 て、と続けようとした瞬間。
ショーウィンドウに映る月に、黒い影の跳躍が覆いかぶさる。

 悲鳴をあげた気がする。
 ぶつっと音を立てて、彼女の生は終わりを告げた。


 後頭部に叩きつけたバールは、ヘルメットの固い装甲を割って、その下まで深々と突き刺さっていた。
「…………」
バールを叩きつけた姿勢のまま、一ノ瀬はその感触を確かめる。
脳を裂く柔らかな感触、ぬちゃぬちゃと粘つく脳しょうの音、割れた頭蓋のカケラが立てる固い反響音。
 びくんっ、と女の身体が痙攣し、ヘルメットから飛び散った血が鬼面に付着した。
 身体を上げると幽鬼のように影が揺れ、握ったバールがぶらりと宙に揺れる。

 身の内から湧き上がる気力。
 生きているという実感。
 空っぽだった体に肉が詰まっていく感触。

 きっと今の自分では、息を止めても透明人間にはなれないだろう。
世界から浮かび上がるほどの実体となって、夜陰を煌々と照らしているに違いない。

実際、月明かりの下で彼の漆黒の姿は月光に垂らされた黒い滴りのように浮かび上がっていた。床に染み渡る血の中から手帳を拾い上げると、背を伸ばして、ようやく辺りへ目を向けた。
 光の落ちたショーウィンドウは、横たわる死体と立ち尽くす黒い影を滑らかな鏡面のよくに映し出す。

 依乃と目があった。

 学校帰り、どこかに寄って帰る途中だったのか、制服姿の彼女は毛並みのいい黒猫のような肢体を歪ませて、引きつった表情で一ノ瀬と、血の滴るバールと、痙攣する死体を見つめていた。
「だ、だれ……な、んで……」
 震える息から漏れる声は怯えていて、プライドの高そうな仮面は剥がれ落ちている。
 手にしたスマホの光が小刻みに揺れている。彼女の指先はかじかんだように痙攣し、ディスプレイの上で親指はタップダンスを刻んだ。
ちょうど表示されていた通話ボタンが押し込まれる。

 無機質なデフォルトの着信音が響き渡った。

 バール先から血を滴らせながら、黒い影は生気のない目を腰裏に向けた。そこから、場違いに賑やかな音が漏れている。
依乃の切れ長の目が押し開かれ
「一、ノ瀬…君……?」
 震える、艶やかな唇。

彼女をここで、始末しよう。
一ノ瀬はそう思った。

◼︎


「ホントに新宿でやらかすとはねぇ、私は感心したよ」
「で、でも火をつけるなんて、やりすぎだよね……?」
「そう? スマイリーマークの形に新宿を焼くなんて、なかなか面白いじゃん。ねぇ依乃?」
翌日の昼休み。
いつもの『お弁当グループ』の中に依乃はいた。
霧島の少々きつい物言いに柚子が二つ結びを揺らして動揺しているが、依乃は口元とお弁当の間で箸を黙々と往復させていた。
「……依乃さぁ」
「…………」
「いーのー!」
「うわっ⁉︎ な、なんなのよ急に……」
「……あんたこそどうしちゃったわけ? 好きな人でもできた?」
霧島の軽口に、むっと依乃は唇を持ち上げる。
「そんなわけないじゃない」
そしてまた、箸と口元を往復させる。霧島は不気味そうに、柚葉は心配そうに見つめていた。
「……ま、いいけど。グッドマンのツイスト見た?」
「見てないわ」
「これ、結構過激なことしてるよね」
霧島がスマホを渡す。
そこには炎上するビルと、新宿の街を上空から捉えた写真が写っていて、燃え上がる炎の形が笑い顔になっていた。依乃の目はじっと画面に注がれ、差し出した霧島も物怖じするほどだった。霧島は「この子、ホント大丈夫なの?」という視線を柚葉に送った。もちろん柚子は困惑するばかりだ。
「依乃ちゃん……昨日、大丈夫だった? 新宿にいたんだよね?」
不意に頭上から声がして、依乃はスマホ画面から目を離した。見上げると、高野がいつもの酷薄な笑顔でこちらを見下ろしていた。
「新宿って、え……? 依乃、ここにいたの? 本当に?」
霧島はスマホの画像と依乃を見比べる。
「あぁ、うん……でもあの後すぐ帰ったから、なんにもなかったよ」
依乃は嘘をついた。
「そうなんだ、よかった。……約束、忘れてないよね」
約束、約束か……依乃はさらに問題をややこしくしてくる鷹野に嫌気がさしてきた。いつの間に約束にまでなっていたのか。吐き気すらしてきて、黙々とつついてきた弁当を閉じる。
「いや、よかったって……だってあの辺いたならさ、なにか見たかもしれないじゃん。ケガ人とかいたらしいし。なんの約束か知らないけど、それどころじゃ……」
さすがに見かねた霧島が声をあげたが、依乃はそれを制して顔を上げた。
「鷹野さん、あのね……」

屋上で待ってます。 鷹野

下駄箱に入っていた手紙を、一ノ瀬はしげしげと眺める。几帳面な文字は一字一句が綺麗で一ノ瀬は大いに感心した。手紙で呼び出すなんてまるで小学生みたいだが、そこにも大いに感心した。一ノ瀬は屋上に向かい、鷹野と名乗るこの人物を待つことにした。少なくとも、一ノ瀬には鷹野が誰なのか、心当たりがなかった。
「ユウーーーー‼︎」
運動場で二つお下げを揺らして愛莉が飛び跳ねていた。
夕陽が落ちる運動場はどこか哀しげで、曖昧だった。見ててっ! と言わんばかりに愛莉は駆け出し、その身体は宙に浮いているように滑らかに加速していく。
「鷹野さんじゃないわよ」
扉が開く音がした。
振り返ると、踊り場と屋上をつなぐ扉が開いていて、腕を組んだ伊乃が緋色の髪をゆらして立っていた。
「あんたなんかを好きな子が、この世に一人でもいると思ってた?」
一ノ瀬は微笑んだまま、首を振った。
「水無瀬さんだと思ってたよ」
「うそね」
「手紙から香水の匂いがした。水無瀬さんがたまにつけてる香水だ」
本気でゾッとして、伊乃は胸を抱いて目の端で睨んだ。
そう、高野の名には覚えはなかったが、手紙からほのかに香る匂いには覚えがあった。
「きも……あたしの匂い、いつもかいでるの?」
「いつもじゃない。"変化"に敏感なんだ。みんな日によって指先や瞳の動かし方が違ったりする。匂いはわかりやすい変化だから……今朝は気分を変えたい気持ちだったのかな」
伊乃の目はますます鋭くなったが、それは性犯罪者を見るような嫌悪の表情ではなくなった。明確に、外敵を捉えようとする目だった。
彼女はゆっくりと一ノ瀬を正面にとらえると、すらりとした鼻筋を低く構え、色濃い敵意と警戒心を滲ませる。つかつかと、長い脚を交差させながら、歩み寄る。
「説明しなさい」
「なにを?」
「とぼけないで。あなた、昨日新宿で……」
言葉を切った。ためらい、しかしすぐにキッと鋭い視線で見つめなおす。
「あなたは人を、殺してた」
一ノ瀬の微笑みは変わらないまま。迫る夕闇がその顔半分を濃い紫色に染め、色素の薄い三白眼で輝く小さな光だけを、らんらんと輝かせた。踏みつけた虫が死にゆく様を眺める、子供のような表情。
「水無瀬さんの言ってることは正しい。説明が必要なようには聞こえない」
「次とぼけたら、逃げるあなたを撮った写真をまとめて編集して、動画をサイトに投稿する」
水無瀬が突き出したスマホには、フードパーカーを着た男が、身を翻してあっという間に逃げ去っていく様子が連射されていた。リピート再生される動画のサムネイルは、顔を逸らそうとする男の素顔が映っている。口元は歯をくいしばる鬼面で隠しているとはいえ、その目元は揺るがない笑みを浮かべている一ノ瀬そのものだった。
「そいつは困るな」
声の調子はずっと変わらず、躊躇った様子も、まして困った様子もなかった。
「言うことを、聞け」
伊乃は切れ長の目を大きく広げて、緊張に震える瞳をむき出しにして言った。強張った声には余裕はなく、しかし殺意にも似た熱意だけはこもっていた。
「いいよ」
「あなたの態度、ムカつくわ」
「そう」
「昨日、なんで人を殺してたの? なんで捕まりもせず、ここにいる?」
「僕はバックライトを全滅させようと思ってる。だから構成員を何人か殺した。警察に捕まってないのは事前準備のいくつかが成功したからだと思う。それか、警察は昨日の今日で逮捕に踏み切るほどの証拠がないんじゃないかな?」
「……待って、何人かって言った?」
「四人殺した。たぶん、三人は今朝見つかったんじゃないかな」
絶句する依乃に、一ノ瀬は安心させようとするかのように、微笑んでみせた。
「大丈夫、問題ない。いざとなったらカーネルルートキットを起動して向こう10年は警察を麻痺させることもできるから。その間犯罪者は野放しだけど……オリンピック以降、今もそんなに大して変わらないから」
依乃の綺麗に整った眉根がねじれた。
カーネル…なに? 10年警察を麻痺させる?
言っている意味がわからない。何が大丈夫なのか、どこまで本気なのかも。わかっているのは、こいつは誇大妄想家のヤバい奴ということだけ。
「……どうしてバックライトを全滅させようなんて考えたの」
「目ざわりだから」
「自分の言ってること、異常だってわかってる?」
「みんながどう感じるかはわからない。殺人が良くないと思ってることはわかる。でもみんな、必要があれば人を殺す。死刑でみんなが人を殺すのと、僕が昨日殺した人の違いが、僕には理解できない」
「理解できないのはあんたの方よ」
依乃は濃いまつげに覆われた目をぎゅっとつむり、眉間に皺を寄せる。人形のような顔に感情が浮かび上がり、教室で見せる作り物めいた表情と違う、本物の感情がむき出しになる。
すっ、と視線をあげ、一ノ瀬の双眸を射抜く。
「あなたを野放しにはできない」
「そうだね」
一ノ瀬は手すりから身を離した。運動場で小さく見えていた愛莉の姿が消え、屋上から見える人影は二人だけになった。

これで、目撃者はいない。

「一つ聞きたいわ」
「いくつでも」
「あなた、私を殺そうと思ってた?」
昨日、依乃と目があった直後はそう思っていた。
「……殺しちゃダメだとは思ったよ」
「なぜ?」
ソプラノの声は僅かに震えていた。怖がらせているのを申し訳なく思う。
「君はバックライトじゃないから」
依乃はゆっくりと息を吐くと、眠りにつくように瞼を閉じた。童話に出てくる、お姫様のように。
「昨日、動画撮ってたでしょ。それ、出して」
「動画って?」
「私に向かってくる時、あなたは一瞬胸元に手をやった。私はモデルで役者。私も"敏感"なのよ。『カメラのレンズ』にはね。あなたの言う"変化"と同じ。わかる? あなたがしてたコスプレのここに」
指をたおやかに、胸の上に置く。彼女の胸は豊満で、指している位置は服の上からでもわかる丸みの側面だった。
くに、と指が沈み込む。
「……光ってたのよ、赤い録画光が」
一ノ瀬は微笑んでいたが、すぐには返事をしなかった。彼が人と会話する時、返す言葉を吟味するのを伊乃は初めて見た。伊乃は唇を八重歯で噛み、タイツの上から太ももを摘んだ。
一ノ瀬は静かに視線を落とし、腰裏からスマホを抜いて差し出した。伊乃は一瞬画面を見つめ、手を伸ばす。
「この動画をどうする?」
指先が触れる瞬間、一ノ瀬はスマホを僅かに手が届かないところに傾けた。
「……関係ない。あんたは渡すしかないのよっ」
伊乃はむしるようにスマホを取り上げると、暗証番号を聞き出して動画を開いた。
伊乃の瞳を青白い光が縁取る。暗闇の中で上がる炎、仮面を被った奇妙な連中、吹き上がる血しぶきに、最後に映る愕然とした表情の少女ーー
「あんたは」
依乃の肩が震えていた。一ノ瀬は微笑みを消し、冷淡な表情でそれを見ていた。その表情は、血を流す獲物を見つめる吸血鬼そのまのだった。
「あんたは一生、あたしの奴隷よ」
依乃は頬に手を当てて、顔を逸らした。その口元が手の隙間から漏れ見えていたのは、ほんの一瞬だけだった。
「これから私が言うこと、なんでも聞かなきゃダメ。なんでも、なんだって」
顔を上げた依乃の口元は真横に伸びていた。しかし、その端、ほんの少しだけ、震えながら持ち上がっている。完璧に抗うには困難な程の快楽が、漏れ見えている。
「あんたは、これでみんなを"否定"したつもりかもしれない」
「否定?」
一ノ瀬の声はいぶかしげだった。
彼も、彼女も、今まで誰にも見せたこともないような表情を浮かべていた。
わずかに眉をひそめた困惑顔と、桜色に頬を染めた興奮顔。
「なんでもわかったような顔して、私たちをいつも否定してる。そんなのわかるのよ。私にはわかってる。だって、昨日のあなたを見たから」
言葉は憎々しげだったが、その声は震え、その表情は抑えきれない期待にピンクに染まっていた。
「これだってそう。私たちが必死で守ってる日常を、あんたは壊す」
依乃が何を言っているのか一ノ瀬にはわからなかった。ただ、小さな積み木の中で膝を抱える、幼い少女の姿をなんとなく連想した。
なぜかはわからない。
「こんな世界、私にだって壊せるわーーあんたみたいに」
顔を上げ、見つめる表情は、仄かに色づく桜色。潤んだ瞳に、震えて笑う、その唇。


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