感想:映画『あの頃。』 連帯ツール・通過儀礼としての「オタク」


【製作:日本 2021年公開】

舞台は2004年の大阪・阿倍野区。ベーシストを志す青年・劔は、バンドメンバーから演奏技術が稚拙だと責められ、鬱屈した日々を送っていた。
塞ぎ込む劔を元気づけるために友人が渡した松浦亜弥のMVクリップ集が、彼の生活を大きく変える。
松浦に強く惹かれた劔は、地域のコアなハロプロ(ハロー!プロジェクト)ファン、いわゆる「ハロヲタ」によるトークイベントを訪ねたことをきっかけに、同イベントを主宰するグループ「ハロプロあべの支部」の一員になる。
6名の男性から成る「ハロプロあべの支部」では、互いの家を行き来して作品を鑑賞し、部屋じゅうをハロプログッズで飾り、イベントの運営を行うなど、メンバーどうしの親密な関係が築かれていた。
劔はあべの支部での活動を通して、遅れてきた「青春」を味わっているような充実を覚える。
しかし、握手会での松浦との対面や、グループ内でのトラブルなどを経て、劔達はそれぞれに新たな熱中の対象を見つけ、人生の次のステップへと進み始めるーー。

本作は、実際に大阪で活動していた「ハロヲタ」のグループをテーマにしたエッセイを原作とする作品である。物語では2000年代半ばのハロー!プロジェクトのメディア展開やファン文化が重要な役割を果たし、ハロプロの協力のもと、当時の映像や音声、ポスターやブロマイドをはじめとしたグッズがふんだんに登場する。
この映画では、膨大なグッズが飾られたメンバーの部屋や、「推し」への愛着をアピールする服装、作中の時間経過に応じたその様相の変化といったディテールが細かに描かれている。一方で、本作の物語が中心に据えるのは、アイドルやその作品をつぶさに鑑賞・消費して対象に陶酔したり、対象について考えたりすることよりも、同好の士であるオタクどうしのコミュニケーションや人間関係の推移である。

劔のモノローグでもたびたび語られるように、本作において、「あべの支部」のメンバーで同じ時間を共有することは、ハロプロのメンバーや作品を愛好することと同等か、時にはそれ以上の価値を有するものとして扱われる。
最初にイトウの部屋に劔が招かれるシークエンスでは、劔が松浦亜弥のポスターやグッズを手渡され、彼女の姿に見入る出来事と、イトウがロビに体重計を細工される、洗濯物の中にブラジャー等を混ぜられるといった悪戯をされる出来事が並行して起こる。また、メンバー間の摩擦を描く中盤では、コズミンがアールの恋人・奈緒に手を出した証拠となる音声が、モーニング娘。コンサートでの石川梨華の卒業スピーチの音声に重ねられる形で再生される。
上記は、本作で描かれる「オタク活動」においては、〒あべの支部」メンバー間の極めて距離の近いコミュニケーションが大きなウェイトを占めていることを象徴する描写だといえる。
「あべの支部」が定期的に行うハロプロをテーマにしたトークイベントも、メンバーの外見やプロフィール、ポルノ鑑賞の趣味をあげつらって「いじる」ことが特徴である。劔が観客として初めて参加した2004年時点では、メンバーがハロプロのアイドルやそのパフォーマンスについて語る姿に焦点が当たっていたが、時を経るごとにメンバー間の人間関係をディスプレイする場としての性格が強くなり、コズミンが世を去る前後の2008〜9年には、明確にイベントの主役が「あべの支部」そのものに移行している。

彼らのコミュニケーションは、ホモソーシャル・ボーイズクラブ的な性質が強く、発展的であるというよりは停滞したものだ。
コミュニティの中では異性と交際しているか、風俗店をどのような頻度・内容で利用しているか、ポルノビデオの鑑賞の仕方などがたびたび問われ、「女性とうまく関係を築けているか」は大きなステータスとなる。
一方で、互いの部屋に入り浸り、その生活の細部を把握しあう彼らの関係には「自分だけの独立したプライベート」がなく、メンバー以外の人との人間関係を築きづらい性質がある。
アイドルグッズで部屋を覆うことは、アイドル当人への敬意や好意に加えて、自分がどれだけグッズを所持しており、それらをどのように組み合わせているか、といった仲間内でのコミュニケーションツールとしての役割も持つ(日用品や衣服などが散らかっているメンバーもいる中で、グッズについては一様に整然と並んでいるのが印象的だった)。また、こうした部屋にはオタクでない知人を招きづらいため、親密な人間関係がオタクどうしのコミュニティに集約されやすいという特徴もある。
彼らは互いの私的な領域を共有し、踏み込み合い、その中で起こった出来事をエピソードとして他者に開示することで、さらにつながりを強化していく。この関係のベクトルは、基本的には内向きなものである。

一方で、同じ対象を応援することに留まらず、コアな趣味や性癖といった、ごく個人的なことまで共有する間柄であるからこそ、彼らは生活の拠点や趣味に変化があっても関係を保持しているともいえる。
本作の象徴的なシーンとして、恋愛がうまくいかず意気消沈する劔に、コズミンがシチューを作り、ともに食べる場面がある。このシチューは「粉っぽくて美味しくない」が、ふたりはそのことを口にしながらも笑い合う。
まずい料理を笑って分かち合うことは、自身の不恰好な面や、他人には見せづらい面をも共有し、互いに受け入れることを意味する。
コズミンとアールの奈緒をめぐる確執において、あべの支部は、コズミンの裏切りや打算を観衆の前で暴きながらも、それを許す。このトークイベントは、「私刑」であると同時に、コズミンの極めて醜い面を認識した上で、メンバーは今後もコズミンと付き合い続ける、という表明の場でもある(この一連の流れは、「女性の所有」にかこつけて連帯を強めているという点でどうかと思うが……)
一時は多くの時間をともにしていたあべの支部メンバーは、就職や転居によって、それぞれの生活を築いていく。しかし、頻繁に会うことはなくなっても、彼らは互いのライフステージの変化に伴走し、見届ける役割を担う。
癌で入院したコズミンをたびたび見舞い、死後の火葬に立ち会うメンバーは、本人の求めているものを把握し、それに沿ってコズミンを看取る。肉親やパートナーといった、ステレオタイプな関係に限定されない「かけがえのない親密な関係」を描いている点は印象的だった。
弱さを他者に見せることが忌避される「男らしさ」規範の中で、男性どうしが互いの情けない部分を受け入れ、引き受ける関係は得難いものだったのではと思う。(ただし、コミュニケーションの紐帯が女性への消費的な目線なのは、やはりかなり気になる)
また、メンバーの中で最も社会的なステータスにこだわっていたコズミンが早世してモラトリアムの象徴となり、他のメンバーは社会で役割を見つけて人生の駒を進めていく、という構造は寓話的でもあった。

「オタク」を描いた作品としては、応援する対象そのものが不在でも、写真や音声といったイコンによってコミュニティが成り立っている点が印象的だった。
作中では、あべの支部トークイベントに設置されている石川梨華の等身大パネルが「聖像」の役割を果たしている。石川がモーニング娘。を卒業し、メンバーを取り巻く状況も変化した末に、コズミン個人を追悼する場となった2009年のイベントでも、石川のパネルは変わらず設置される。ここでパネルは、石川本人への愛着の証明といった文脈からは切り離され、あべの支部の関係を担保する物理的な証として機能している。
実際の2000年代のハロプロファンダムでも、藤本美貴「ロマンティック 浮かれモード」の音源を再生するラジカセを崇拝対象として繰り広げられる大人数でのオタ芸飯田圭織の2007年のバスツアー会場に毎年ファン有志が集合する、といった現象がみられる。ここでは、「対象への愛着や思慕」は、ファンが共同体を築いてコミュニケーションをとるための大義名分であり、藤本・飯田本人の存在は後景化しているといえる(引用動画の「ロマンティック 浮かれモード」に関しては、歌唱者も藤本ではない)
ただし、その大義名分があるからこそコミュニティは成立し、大義名分を唱えることで彼らの連帯は強度を増している。
この構造は、キリスト教の日曜礼拝のように、神の名の下に集まりながら互いをケア・サポートする、いわゆる伝統宗教における共同体の在り方と通ずるように感じた。

一方で、本作でのハロプロアイドル本人は、生身の人間でありながらも、侵しがたいムードを持つ存在として現れる。
劔が握手会で相対する松浦亜弥は、階段を上った先(劔らのいる世界より上の位相)で彼らを待ち、後光のような眩い光を纏う演出がなされる。
この映画に登場する「女性」には複数の領域があり、情熱を傾ける対象のハロプロのアイドル、生活や人生をともにしたいと考える恋愛対象の女性、性欲処理の対象であるセックスワーカーは分けられる。オタクはハロプロのアイドルを征服や消費の対象ではなく、敬愛すべき存在として捉えている、というこうした構図は、オタクとアイドルの間に独特の関係があると示す効果をもたらしている。ただ、この切り分けは別の領域にあるとされる女性達に失礼だし、実際にはアイドルに対しても征服や消費のまなざしは確かに介在するだろう。
アイドルは他の女性とどう違うのか、崇拝の対象とみなしつつもひとりの人間としてその選択を尊重するとはどういうことか、という葛藤は、オタクとして「推し」をまなざす上での核となると個人的に考えているのだが、本作ではその点には触れられていなかった(ハロプロが協力している映画でスキャンダルや生々しい視線について触れることは難しいとは思うのだが)

本作では、アイドルを天上の存在として見上げ続けるのみではなく、生身のアイドルに触発されることで、ファン自身も自らの階段を上り始める。(本作では「階段」がモチーフとして頻出する)
劔については、握手会での松浦との対面がオタク活動におけるひとつの区切りとなり、その後は音楽への情熱に回帰していく。「あべの支部」コミュニティからライブハウスでの働き口を見つけ、演奏のスキルも向上させ、当初の目標だったミュージシャンとしての道を切り拓くことに成功する。
アイドルへの熱中を人生における通過儀礼と捉え、今後も付き合い続けるであろう友人との関係や、自分自身の目標に軸足をシフトしていく劔の在り方は、とても健全なものといえる。
大学の学園祭でハロプロについて語るときのあべの支部メンバーの目の輝きの描写や、石川梨華の応援を通じてまったく背景の違う他人である劔と馬場が意気投合する様子などからも、本作は「好きなものがあること」「好きなものを通じて他者とつながること」を称賛する作品だと感じる。
実際のオタク活動に存在する問題点を捨象している点は気になるものの、応援の対象に耽溺しすぎず、コミュニティに停滞し続けることもなく、それらを糧に目の前の現実を生きていく本作のオタクの在り方は、趣味と人間の関係においては最も理想的な形のひとつではないかと思った。

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