感想:映画『博士と彼女のセオリー』 献身の破綻

【製作:イギリス 2014年公開(日本公開:2015年)】

量子宇宙論を開拓した理論物理学者、スティーヴン・ホーキング。大学院時代に筋萎縮性側硬化症(ALS)を発症した彼は、闘病しながら博士号を取得し、そのキャリアを築いた。
キャリア前半のスティーヴンの生活を支えたのは、ケンブリッジの大学院で出会った彼の最初の配偶者ジェーンだった。
ふたりの邂逅から結婚、そして婚姻関係が終わるまでを描いた作品。

本作はスティーヴン・ホーキングの伝記映画であるが、彼の業績よりもジェーンとの生活に重点が置く。
輝かしい成果のもとで捨象されるか、取り上げられても美談として理想化されやすい「献身」と、その破綻が描かれる。

スティーヴンがALSと診断された頃、患者の余命は数年とされていた。
研究テーマをようやく見つけた矢先の余命宣告に意気消沈するスティーヴンをジェーンは励まし、彼を支えることを宣言して結婚する。
子どもも産まれ、ジェーンは可能な限り自分の力で動きたいというスティーヴンの意思を尊重しつつ、必要なサポートを提供する。
病状の進行と闘いながら、彼は当初宣告された余命2年を遥かに越えて研究を続け、世界有数の理論物理学者として名を馳せる。
しかし、ともに過ごす時間が長くなるにつれ、ジェーンの負担は蓄積していく。

本作では中盤以降、スティーヴン以上にジェーンの状況や心理の描写に尺が割かれる。
ジェーンもスティーヴンと同様にケンブリッジの大学院に所属し、言語学での博士号取得を目指す学生だった。スティーヴンとの初対面での自己紹介は互いの専攻を知るところから始まり、スティーヴンがALSと診断されるまではジェーンも自身の研究について積極的に話す。
しかし、結婚し、スティーヴンの介護・子育てを両立する生活が始まったことで、ジェーンは研究者としてのキャリアから離れることになる。彼女が忙しい日々の合間を縫って読書をしようとするも、家族の世話に追われて集中できないシーンもある。
当初からスティーヴンやその周辺の人物はジェーンの研究分野への興味が薄い。スティーヴンの実家に挨拶に行った際、彼女の専攻や好きな画家の話は軽くあしらわれてしまう。
ジェーンは無神論の立場をとるスティーヴンの学説の概要を理解し、他者に説明することもあるが、彼女自身はイギリス国教会の信徒であり、内心では信仰を覆してはいない。
彼女は結婚までに自身を築いてきた要素のすべてを後景化させ、スティーヴンや子どもの世話を最優先に行動する。

施設のバリアフリー化もほぼ行われない時代、「可能な限り他人の力を借りずに生活したい」というスティーヴンの姿勢は、最も近い他人であるジェーンに多大な負担をかける。
行き詰まった彼女の日々の介護や子育てを、教会の聖歌隊で知り合った男性ジョナサンがサポートするようになる。ジョナサンを含んだ家族での暮らしをスティーヴンは快く受け入れるが、彼の実家は良く思わず、その時期に生まれた第三子の父親が誰かを疑う。この子どもはスティーヴンとの間の子だが、ジェーンとジョナサンは実際に惹かれあっていた。
スティーヴンの実家は、時折会ったときには彼の介護を手伝うが、日々の暮らしについてはジェーンに一任する形をとっている。介護士を雇わないのはスティーヴンの意思であるとはいえ、義実家はジェーン個人を重視せず、スティーヴンを十二分にサポートし、なおかつ彼を裏切らない「献身」を求める。

献身をアイデンティティとし、世話をする対象に尽くすことを幸せと捉える場合もあるが、ジェーンはそうは考えない。
最終的に彼女は婚姻関係を終わらせてジョナサンと再婚し、博士号を取得する。スティーヴンと出会う前に築いた自己を取り戻すことに幸福を見出すのだ。
作中でも介護と子育ての両立の難しさを象徴するシーンが描かれるが、20年にも及ぶ実際の生活を続けるための心身の負担と疲労は想像を絶する。献身に心まで捧げなかったジェーンは非常に強い人だという印象を受けた。
一方で、「献身」に溺れない姿勢はジェーン自身を守るためだけのものではなく、スティーヴンをひとりの人間として尊重するものでもある。介護者と被介護者の物理的な力関係はどうしても介護者が上になる。この垂直構造は憐れみのまなざしや対象をコントロールしようとする姿勢につながる。
ジェーンはスティーヴンの病状が進行しても、彼を対等な存在として扱い続けた。負担が増えるのが明らかな状況で3人の子どもをもうけたことも、彼を尊重する故だと捉えることもできる(個人的にはこれはどうかと思うが……)
また、後にスティーヴンの2番目の配偶者になるエレインも同様に「献身」をアイデンティティとせず、個人として彼に接する。エレインは看護師であり、「仕事」「技術」として介護を捉える専門家だ。だからこそ子育てとの両立で疲れきったジェーンよりもスティーヴンの人格や行動のユニークさに着目する余裕があったといえる。
介護者を被介護者と一心同体の存在ではなく、個人として捉えることに本作の主眼があったと思う。

個人的にはスティーヴンのことはあまり好きになれなかった。意思の表明が困難になる病のため、ジェーンへの感情については判断に留保が必要だが、男性としての機能にこだわるところがどうしても引っかかる。
女王との謁見時のパートナーに離婚したジェーンを選ぶところは彼女の長年の仕事に報いていると思うものの、ふたりの関係を担保するものとして「3人の子ども」を挙げるのは旧弊的だと感じた。有形かつ論理で説明できるものを重視するのは物理学者ならではといえばそうなのだろうが……。
思いやりのススメ』を観たときも感じたのだが、身体を思うように動かせない男性が陥る「不能へのコンプレックス」は克服できないものなのだろうか。
とはいえ、研究内容・病の性質の両面から、時間の不可逆性と向き合い続けた人物であり、それ故に本作終盤の講演会での幻と、最初の講演に立ち会っていたジェーンがいない事実、そして時間の巻き戻しは強いインパクトがある。
ジェーンは離婚によって自分を巻き戻すことができたが、スティーヴンにはそれが不可能だ。この不均衡については留意したい。

序盤の学生生活のシークエンスは衣装・セット・鮮やかな色遣いと、60年代のスタイルや大学生活へのノスタルジーを掻き立てるものとなっている。これらの華やかさや煌びやかさ、スティーヴンとジェーンのぎこちなく微笑ましい恋の様子は、その後の長い生活と対置される。
幾分の美化が含まれるであろうこれらの光景は、現実の厳しさを際立たせるが、同時にふたりの関係のポジティブな面を確かめる記憶として、現実を生きるための原動力ともなりうる。
前述の巻き戻しの演出も含め、構成が巧みな作品だと感じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?