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神学大全を読む。

 タイトル通り、トマス・アクィナスの神学大全を読んでいます。

 穏やかそうな風貌で描かれるトマスですが(牡牛のようなと表現されているものも見掛けた事があります)、存外と文体は苛烈です。
 ちなみに読みやすいかと言うと決してそんな事はありません。アリストテレスの理論を知っている必要がありますし、アウグスティヌスなど他の教父の知識も必要になります。大体の章では対立する2つの見解を述べた後、自身の主張を展開するので、人によっては構成自体が苦手な人もいると思います。
 何より財布に優しくない。手っ取り早くトマスの思想が知りたいという方はこちら↓がおすすめですが、どのみち財布には優しくない。僕は神学提要も神学大全も図書館で貸して頂きました。)

「神学提要」 トマス・アクィナス 2018.10.25 知泉書館



 神学提要でもそうなのですが、神学大全を念頭に置いて話を進めます。

 中世キリスト教世界における教父の役割である、正義と秩序の番人かつ悩み揺れ惑う人々の精神的支柱となり道を照らす者という課せられた使命もあるのでしょうが、トマスの著作を読んでいてまず浮かび上がってくるのは「責任感の強い神学者」という一面です。

 中世キリスト教社会は常に混沌と隣合わせの世界ではあるものの、自身が帰属する「神」という存在がありました。それが時に葛藤を生み、マクロでは暴走していたこともあったのは歴史の教えるところですが、信仰が人にカウンセリング的な機能を与えていたことや行動の指針を示していたことは見逃してはならない事実だと思います。

 勿論それが絶対的に正しいと述べるつもりはありませんし、現代では本来の役割を果たす事は殆ど不可能でしょう。むしろ善にしても正義にしても、絶対的な尺度は弊害のほうが大きいのではないかというのが僕自身の考えです。

 ただ、現代では帰依するものが何もないということがそもそもの病巣となる漠然とした不安が漂っている印象があるのですよね。

 頼れるものは己だけ。当然、トマスのような人ももういません。己の信念が個人の道を照らす。

 僕はそういう考え方はとても好きなのですが、一方で自己の信念だけを頼りに船を漕ぎ続けることができる程人間は強いのだろうかという疑問もあります。

 権力が強ければ強いほど所属する者は安全を担保される。しかし、所属しないものを排斥する力も同時に強くなる。神でも人でも同じです。それが例え己の信念であっても。人間が何かを頼りにしながら生きるとのであるという特徴をもつ以上、他者を排斥しないのは不可能です。他者を排斥するための行動、つまり攻撃の濃度の問題に還元されるでしょうね。

 航海の道標たる灯台が威光を持ち人々を導いていた中世に比べ、現代では灯台の灯りは余りにもかすかな明かりとなっています。乱立した灯台のかすかな灯りは旅のよすがにはとても弱々しい。他者への排斥は中世よりは小さくなっているのかもしれませんが、今は傷だらけの小船がお互いをやはりミクロのレベルでは排斥しながら、それぞれの道をバラバラに漂っています。

 ですが、この弱々しい灯りを頼りに航海を続ける時代は続くのでしょう。孤独な航海を我々は終わりなく進んでいく。

 そんな時代を生きるからこそ、逆に僕たちは人間という集団のために、信仰と知識だけを武器に戦い続けたトマス・アクィナスの背中をぼんやりと見る事ができるように思います。

 とてもたくさん語ったので、本を読んで寝ます。それでは皆様、おやすみなさい。

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