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改革は一日にて成らず。近代の名君・上杉鷹山の人生哲学

1.これはなに?

誰かに対して遺された言葉や作品は、その人の人生が詰まっています。
偉人が、子孫や家臣に向けて遺した言葉は、“遺訓” と呼ばれますが、
それらを取り上げながら、日々の学びに変えていこうというのが、
“遺訓探訪” シリーズです。

シリーズの第4回は、前回取り上げた、上杉謙信公つながりということで、
18世紀末~19世紀初頭にかけて、米沢藩にて窮乏にあえぐ藩の政治を立て直した、近世きっての名君の誉れ高き大名、上杉鷹山公を取り上げます。

(前回は👇)

ちなみに、ジョン・F・ケネディ元大統領が日本を訪れた際に、
「日本の政治家では、上杉鷹山を尊敬している」と話したという言説が残っています。

2.上杉鷹山公の遺訓

為せば成る
なさねば成らぬ
何事も

成らぬは人の
なさぬなりけり

3.所感:苦節50年の改革の志。やり遂げる責任感の込められた一節

5・7・5・7・7の短歌調にまとめられたその言葉は、まさに人生哲学。
上杉鷹山の人生を知ったときに重みを一層感じられます。

鷹山公はもともとは福岡の人ですが、遠い親戚だった縁で米沢藩・15万石の藩主となりました。
関ヶ原の戦いで西軍方についた上杉家は、越後を追われ、会津→米沢と転封となったものの、
家臣団は会津120万石の当時と同じ規模を有して人件費がかさみ、
また家臣団も「あの謙信公の上杉家に仕えているんだ」というプライドが高く、“格の高さ”を意識した散財をしていた低落ぶり。

これでは領地返上も危うい中で、改革に取り組んだのが鷹山公でした。
彼の改革は大きく3つ。精神の改革・産業の改革・財政の改革でした。

質素倹約に勤めるだけでなく、「してみせて、言って聞かせて、させてみて」改革のメリットを説くとともに、
興譲館を設立し、人材育成に努めます。
そして、当時、高まりを見せていた商品経済の流れに乗り、穀物以外の産業植物の栽培を奨励。
民衆を潤わせることで、間接的に藩財政の歳入を改善。
大きく民衆から搾り取ることなく、赤字財政を脱却させたのです。

が、その改革の道のりは高く厳しいもの。
まずあったのは、家臣団の反発。“家格を重視”する家臣たちは、質素倹約に勤めることが、上杉家の当主としての威厳が損なわれるとして反発。
七家騒動と呼ばれる直訴がなされました。
(意識だけはいっちょ前で、現実をみとらん、現実を。)
また、農業改革の途上にて天明の飢饉が襲い、窮状極まる顛末。

改革は挫折し、鷹山公は家督を息子に譲り、隠居の身になるのです。

が、「民の父母」として政治に取り組む彼は、あきらめず、苦節50年。
やっとのことで藩財政は赤字から脱却し、米沢藩の財政立て直しの先鞭をつけることとなったのです。


飢饉など、きっと、彼自身ではどうしようもなかった理不尽もあったはずで、
それを前にしても「為せば成る」「成らぬは人のなさぬなりけり」と捉え、ひたむきに志を全うする。
その姿勢こそ、名君の評判が自然と集まったゆえんなのではないでしょうか?

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【上杉神社にて。筆者撮影】



4.さいごに

改めてですが、“遺訓探訪” シリーズは、人間修養中の身である自分としても、学んでいく意識で取り上げていきます。
ぜひ、みなさんの解釈についてもお聞かせいただけると勉強になります。

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