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ホームとホームレスと、マイパブリックとグランドレベルと、SNSと

薦めてもらって本を読みました

その本を読みながら僕が感じたことを、発散的に書いてみようと思います。
まちがえないことより、直感をできるだけ言葉にすることを大事にしました。なので、間違えているところがあったらやさしく教えてください。

マイパブリックとグランドレベル、自分では出会うことのなさそうな本で出会いに感謝しています。僕は、この本を一言でいうなら「まちづくりと自分の関係づくり本」みたいに感じました。
 僕はフードデリバリー配達の仕事で日々街を行き来していて、この日々に新しい見方を入れていきたい、そんな欲求から関心を持ちました。著者さんのこともまちづくりのこともほとんど知らないので、解釈がずれたり、本の意図してない方に発想が飛んでいったりすると思います。素人の発想の飛躍を楽しむように読んでもらえたらうれしいです。

 マイパブリック→”自分で作る公共”のこと。それは誰かにとっては公共になりえても、別の誰かにとってはそうでないかもしれない。音楽を選ぶように、自分の毛色にあった公共をそれぞれが選びとる。公共を「みんなのもの」だけにしようとするとクレームに過敏になって、個性のないつまらない公共だけになる。だから”自分で作る公共”をそれぞれがつくって、それぞれが楽しむことで公共を楽しく豊かなものにできないか。

グランドレベル→地面と建物の一階、街を歩く人間の視界に入るところは「プライベート」と「パブリック」の交差点になっている。ここを「グランドレベル」と名付けている。(僕は読みながら、それなら鳥や魚や猿のグランドレベルは?などと考えて楽しんでいました。)

たとえばテーマパークのように商業化され価値とお金が交換されるグランドレベルデザインではなく、「マイパブリックのマインドでグランドレベルにいること」が何を起こすかについて書かれていました。僕は、それはきっと資本経済が発展していく前にはあたりまえにあったあり方だろうと思います。マイパブリックの展開は資本主義とぶつかります。資本主義との距離感や資本主義との付き合い方もキーになるのではないかと思いながら読み進めていました。

僕がマイパブリックで連想したもの

SUAT mobile DJ

陽気なおにーさんのマイパブリックです。この本を読んでた時にたまたま見た動画なんですが、イスタンブールの開放的なグランドレベルで楽しむ人たちが印象的です。
マイパブリックの意味を聞いて、最初に連想したのはこういう海外都市の開放的なグランドレベルです。著者さんの言葉からもこういったパブリックを楽しむ海外都市文化へのあこがれを感じます。

楽しみすぎて通行の邪魔だな~とか、ゆっくり過ごしたい人もいるんじゃないかとか、だれかにとっては合わない公共で、それぞれが受け取ったりノーサンキューしたり、一人一人が選んで距離を調節しながら楽しんでいます。

プレーパーク

僕は最近よく世田谷のプレーパークに行きます。こんなところです。

公共公園の一部をプレーパークとして、「自分の責任で自由に遊ぶ場所」にしています。
・なにをしてもいい場所である
・同じ場所にたくさんの人がいる
この2つで、自然にそこらじゅうでマイパブリックな遊びが生まれます。先週は、小学4年生の男の子のあそびに巻き込まれて、お互い着替えもないのに泥遊びしました。全身ドロドロになって、服ごと全部ホースで洗って凍えそうになりました(笑)
一人遊びもたのしいですが、プレーパークではひとりで遊ぶのはもったいない気がしてきます。遊びが伝播する過程には目的がありません。自分が楽しいことが自然と誰かを楽しくしていきます。

スープの会

先週はじめて参加した、路上で暮らす人たちにスープを持って会いに行く会です。

栄養のある炊き出しではなく、お金や就労の相談でもなく、「ただスープを持っていく」ことは直接何かの役には立ちません。「そんなのいらない」も「きょうはいらない」もできる形、だからこそ、支援する側される側という一方通行ではないフラットなかたちで出会うことができます。会いに行く僕たちも「役に立とう」というよりは、そこに生きる人への関心という自分本位な出発点であり、それがスープの会がマイパブリックになる理由だと思います。

ホームとホームレス、資本主義とマイパブリック

ひとりひとりがグランドレベルでマイパブリックを展開していくには?と考えたとき、僕はおおきく2つの課題を感じています。どちらも資本主義とかかわりが深い課題です。

・パブリックにしか居場所のない人たちのこと
・マイパブリックの展開に使う時間などの資源をどうやってつくるか

マイパブリックという軸では資本主義は「課題」になる場合が多いように感じます。ただ、僕は資本主義そのものを否定したいわけではなくちょうど良い付き合い方を見つけたいというスタンスです。

パブリックにしか居場所のない人たちのこと

路上にいる人たちのことは、マイパブリックしたい人にとって課題になります。パブリックの一部をパーソナルにして生きる人たちにとってマイパブリックはパーソナルをおびやかす存在になりえるからです。
彼らがどんな状況であってもパーソナルを確保できる状態になることが、パブリックがマイパブリックを受けいれる素地になるのではないかと思います。ただ、トー横にいると、パーソナルとマイパブリックが折り合いをみつけているようなそんな暖かさを感じる瞬間もあるんですよね…繁華街のもつ独特の光みたいなものは、パーソナルとマイパブリックの折り合いから感じる一面もあるかなって思います。ここにいけば何とかなるって思わせてくれるというのもわかる気がするんです。

マイパブリックの展開に使う、時間などの資源をどうやってつくるか

r>g、資本主義のもつ労働価格競売の性質は、働く人たちにマイパブリックに割く資源を容易には作らせません。マイパブリックが稼げないとなれば、資本主義にとってはそれが淘汰の対象になってしまいまうからです。
たとえるなら、100人分の労働力が必要な市場に対して、同じ能力をもつ101人が集まるとイス取りゲームがはじまって、たった一人分の不足のために100人がパブリックマインドを捨てて他の人よりも生産性を上げようとします。労働力の再生産費をどれだけ安くできるかの競争に入ります。
ひとりひとりがパブリックマインドを保つには、いかにこの椅子取りゲームに参加しないで済むようにできるかがカギになります。社会としてやることは、社会保障をマイパブリックも前提にしたものにしていくことでしょうか? 個人にできることは、他の人よりも安く幸せに生きられるようにする、他の人ができないことをできるようになる、資本家側になっていく、そういうことを意識すると資本主義といい距離感がつくれて付き合えるようになるのではと思っています。

インターネットとマイパブリック

・インターネット空間はマイパブリックを展開しやすい公共に近い空間
数万円で環境を構築できれば、誰でも双方向に受発信できる世界です。僕たちはここであらゆる情報や気持ちを共有しています。SNSは自分のことを投稿すると誰かが見てくれるので、自分だけでやっていたことをマイパブリック化できる性質があります。
マイパブリックという言葉は、インターネットが一気に発展した背景をこれまでにない形で説明してくれる言葉かもしれないと思います。

・広告収益とマイパブリック
さっき紹介したSUATさんはマイパブリックをyoutubeに投稿して広告収益(と最近はpremium会員ができたのでサブスク収益も)を利用することで、その場ではお金のやり取りのないマイパブリックを収益化しています。僕は広告が効果のある社会には課題を感じたりもしますが、それでも、広告の仕組みによってとても安価な公共的空間がつくられているのはすごいことだと思います。

自己表現と福祉の「マイ」「パブリック」

表現と福祉という言葉を確認しようと辞書を引きました。
表現→心に思うこと、感ずることを、色・音・言語・所作などの形によって、表し出すこと。その、表した形。
福祉→「しあわせ」や「ゆたかさ」を意味する言葉であり、すべての市民に最低限の幸福と社会的援助を提供するという理念を表す。
辞書=事実ではないという前提は置きつつ、これを一定の共通認識としてすすめます。

マイパブリックは自己表現の中でも
自分のために"自分が"好きなものを作った結果をみんなで楽しむ
のではなく、
自分のために"誰かが"好きなものを作った結果をみんなで楽しむ
「誰かのためにつくる自己表現」がマイパブリックといえるでしょうか?

表現が福祉になる、福祉が表現になる、この双方向をひとつに表した言葉がマイパブリックといえると思います。

僕はこれまで、自分の日々を表現として捉えたことはほとんどなかったように思います。福祉と捉えたことも。この本を紹介してくれた人は僕に表現や福祉という見え方を伝えてくれる人で、日々に新しい豊かさが添えられています。

あまりまとまりなく思いつくままに発散的に書いた文章を、ここまで読んでくれてありがとうございます。もしよければ、まとまりなく思いつくままにでいいので、コメントなどのリアクションももらえたらうれしいです。