信仰でいい。信仰がいい。
僕には生きている上で信仰しているいくつかの事項があって、宗教ではないのだが「信仰」と呼んでもいいほどに僕が生きていくために必要な中核的な信念になっている。
そのうちのいくつかはこんな風だ。
・内向型の人間は外向的な人間よりも生きるのが苦しい。だが高い共感的能力と豊かな内的世界を有している。
・機能不全家庭に育ったアダルトチルドレンはできないことが多い。できないことは努力で変えられることではなく機能的な欠陥なので、できない前提から「どう生きるか」を考える必要がある。
・あたたかい人間関係の形成には魂レベルでの内面の共有が必要である。
信仰、と言ったのは、僕がこれらの信念を生きるよすがにしているからだ。
否定されると、身体をバラバラにされるような激しい痛みに襲われる。
これらは、僕がかつて死なないために、自分を殺してしまわないために、自分自身を説き伏せてきた言葉たちだ。
その信仰は「死なない」ために必要だった
『事実はなぜ人の意見を変えられないのか 説得力と影響力の科学』(著.ターリ・シャーロット)によれば、「ある信念や活動にすでに傾倒している場合、それが間違いだと示す証拠は無視されがち」であり、「人はそのようなデータを信憑性がないと解釈する」という。
概要を簡単に紹介したい。
トランプ元大統領が科学的根拠は全くないが「MMRワクチンには子供を自閉症にする効果がある」と公言したことで、一部の親が子供へのMMRワクチンの接種を拒否するようになった。
親たちは恐怖や不安のスイッチを押され、ワクチン接種をしない=何もしないという行動選択をしている。恐怖や不安は、「何もさせない」ためには非常に効果的だ。
これに対して「MMRワクチンは必要だから接種しろ」と言うのは逆効果で、親たちは「ワクチン接種は安全である」という証拠の信憑性を無視する。
効果的だったのは、「同ワクチンが死に至る可能性のある疾患を防ぐ」という、既存の信念を否定せず新たな信念を植え付けるという方法だった。
今もだが、僕には内向型の特性や性別違和のために「死なないでいること」が物凄く難しくて、「死なないままでいる」という行動選択をし続けるために、沢山の信仰や信念が必要だった。
のだけれど、僕の親は僕の信仰を否定することが多かった。
死なないで生きるために「秋田さん(某アーティスト)のライブを聞くまでは死なない」というマイルストーンを設定したら、「そんなつまらない音楽」となじられた。
自分を殺さないための最後の一歩手前のブレーキとして開けたピアスを責められた。
信仰やそれに基づく行為というのは、傍から見れば今思えば突拍子や脈絡がなかったりはするのだが、僕にとっては決死である。なにしろそれなしでは、生きてまでこんな苦しみに耐える理由がなくなってしまう。能動的に死ななければならなくなる。
僕にとっては親というのは分かりやすい迫害者だったが、信仰が迫害を受けるのは、いつだって「集団における正しさ」による。
基本的優しさ。
基本的ルール。
基本的倫理。
基本的空気読み。
基本や普通から外れてしまう者たちに対する殺戮は目には見えない。まるで目には見えないテンプレートや能力値をみんながみんな持っているはずだと言わんばかりに、普通教の普通強要は善意によって行われる。
普通はこれくらいできるでしょ。
大人なんだから当たり前。
みんなやってるよ。
だけど、不遇なバックグラウンドを背負った人間の心は少なからず歪だ。歪だから、そのうちの一定数の人たちは信仰を必要として、自分自身を何とか死なせないように生かしてきた。
子供じみた、しかし命懸けの信仰を踏みにじられた僕は、それこそ命懸けの必死さで反抗をする。
僕にとっては信仰は「ライナスの毛布」だ。
それだけを頼りに存在しているのに、奪われたら今度こそ気が狂ってしまうかもしれない。
親を刺すか、自分を刺すか、そういうところまで追い詰められた事件未然のあの日のエネルギーは、今も僕の内側でふつふつと沸き立ち沸騰していて、解放される時を待ち侘びている。
信仰はトレード可能だが棄却は不可能
でも本当は、僕が決死に握りしめているこの毛布を誰かにじっくり見てもらいたいのだ、という気もする。
大事な毛布を取られそうになったら、それは全力で相手を叩き潰しにかかるけど、本当は
「この素敵な毛布はここの縫い目が本当にキュートでね」
って話がしたいわけです。
あなたの持っているその素敵なぬいぐるみの話がしたいわけです。
頑なな信仰は、それ自体で正しいかどうかとかは死ぬほどどうでも良くて、信仰が人を生かすことがあるという一点において、どこまでもどうしようもなく正しいのだと思う。
そしてできれば、信仰が似通った人と生きていきたい。
信仰が殺されることは、僕自身が殺されることに他ならないから。
価値観がまったく同じでなくてもいい。
近しい信仰を持つ人たちを集めて生きていくことは、欺瞞でも怠慢でもなく、どこまでもただの人間として正しいことなんだろうと思う。
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