見出し画像

知ったかぶり。イイね!恥かくけど誤解を正せる可能性が高まる(ベターアイデア? v3-20)

お正月休み。のんびり本を読んでいます。で、自分の中ではちょっとショッキングな、でも、よく考えてみると当たり前の記述にぶつかった。「文明崩壊(ジャレド・ダイアモンド著、楡井浩一訳、草思社)」という本で。2005年の昔の本です。

単なるボクの想像力の欠如であり、大いなる勘違い、なだけなのですが。自分の間違いをその本で正され、自分でビックリ・ショックを受けたという、なんともお粗末な話なんだけど。

まず、去年読んだ本から繋がる話なのです。「ホモ・デウス(ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、河出書房新社)」という本です。:

「この世界に住んでいるのは、主に人間とその家畜なのだ。~。合計するとおよそ二〇万頭のオオカミが依然として地球上を歩き回っているが、飼い慣らされた犬の数は四億頭を上回る。世界には四万頭のライオンがいるのに対して、飼い猫は六億頭を超える。~一九七〇年以来、生態系に対する意識が高まっているにもかかわらず、野生動物の数は半減した。」

「今日、世界の大型動物(体重が数キログラムを超えるもの)の九割以上が、人間か家畜だ。」

え、そうなのか。思いもしなかった。テレビやSNS、映画で、ライオンやゾウ、イルカやシャチ、サメやクジラ、色んな鳥を見るけど、地球規模で見るとほぼ人間と家畜だけが存在しているんだ。。。

同じ、ユヴァル・ノア・ハラリ著の「サピエンス全史(柴田裕之訳、河出書房新社)」では、こんな記述が続く。ちょっと長いですが:

「歴史上の痕跡を眺めると、ホモ・サピエンスは、生態系の連続殺人犯に見えてくる。

  • 「(オーストラリア大陸の)巨大な生き物は事実上すべて姿を消した。体重が五〇キログラム以上あるオーストラリア大陸の動物種二四種のうち、二三種が絶滅したのだ。それより小さい種も、多数が消えた。~。オーストラリアへの移住者、いや、より正確にはオーストラリアの征服者は、~、この大陸の生態系を、元の面影がないほどまでに変えてしまった。」

  • 「北半球のほとんどで、マンモスは何百年にもわたって栄えてきたが、まずはユーラシア大陸で、続いて北アメリカ大陸でホモ・サピエンスが広がるのに足並みを揃えるようにして後退した。~、世界のどこを探しても、マンモスは一頭も見られなくなった。例外は、~ウランゲリ島だった。~が、約四〇〇〇年前、忽然と姿を消した。これもまさに、人類が初めてこの島にたどり着いたときだった。」

  • 「アメリカ大陸への移住も無血だったとはとても言い難い。サピエンスがやって来てから二〇〇〇年以内に、こうした珍しい種の大半が姿を消した。」

  • 「マダガスカル島 大型動物の大半、約1500年前に忽然と姿を消した。これはまさに、人類が初めてこの島に上陸したときだった。」

  • 「太平洋では、ポリネシアの農耕民がソロモン諸島、フィジー諸島、ニューカレドニア島に住みついたときに、最大の絶滅の波が起こった。~。絶滅の波はそこから~拡がり、~サモアとトンガ、マルキーズ諸島、イースター島とクック諸島とハワイ諸島、そして最後にニュージーランドの固有の動物相が跡形もなく拭い去った。」

  • 「世界の大型生物」のうち、人類の殺到という大洪水を唯一生き延びるのは人類そのものと、ノアの方舟を漕ぐ奴隷の役割を果たす家畜だけということになるだろう。」

2つの書物を合せて、つまり、人類がアフリカから広がって他の大陸や島に行くたびに他の生物(主に数キログラムより大きい生物)を絶滅させてきた、ということ、と理解した。

で、このとき、ボクの頭に浮かんでいた”人類”・”ホモ・サピエンス”が現代のボク達のような人々として浮かんでいた。コロンブスやバスコダガマからの大航海時代以降の様相の人々、ボクがイメージしたのはこんな人々。技術進歩した我々のような人々。

つまり、いわゆる先住民、XXX種族の人達は思いも至らず、この方々はもちろん違う、って。だって、環境を大切にし、生態系を脅かすようなそんな殺戮はせず、自然・生態系を知り・感じ、逆らわず、敬い、質素に、調和して暮らしている、のだから。。。

でも、よく考えれば、そんなわけないですよね。何千~何万年前から人類は他の動物をほとんど絶滅させてきたのだから。で、冒頭の「文明崩壊」に戻ると、こんな記述があり、そのことに気づいて、自分の勘違いにショックを受けたのでした。当たり前を誤解していて、あ、そうか、とビックリ。

「過去の先住民を現代先進国の住人と根本的に異なる人間と見る過ちを犯している。環境資源を損なうことなく維持していくのは、そもそもの初めから、つまり、ホモ・サピエンスが発明の才や能率という概念や狩猟技術を開花させた五万年ほど前から、むずかしい営為だった。」(文明崩壊、ジャレド・ダイアモンド著、楡井浩一訳、草思社)

あ、そりゃそうか、先住民、原住民、XXX族な人々が/も、殺戮してきたのですね。もちろん当時はその影響の程度や未来がどうなるかなんて考えもせず、まったく意図的ではないでしょうが。

本読んで、知識得て、新しい気づき得て、自分の考えや行動や習慣が変わって。嬉しいですね。でも、こんな勘違いというのか、想像不足というのもありますね。気をつけないと。知ったかぶりしていると、痛い目に遭うかも。

なるほど!という最初の気づきにばかり踊らされ、正しい認識が欠如。当たり前なことを思考しきれず誤解している。でも、また違う本などを読んで、偶然にも追加の情報があって驚く。

で、「新しい気づきを得る ⇒ 自分では気づいていないけど誤解している可能性がある ⇒ 誤解に気づく ⇒ その繰り返し」が、学びということでしょうかしらね。常に誤解はありますね。すべてのことに誤解しないのは不可能ですもの。そしたら、「誤解に気づく」可能性を高めるほうがよいですね。どうしたらそうなるか。

実は効率的なのが、「知ったかぶり」してひとに話す・表明することなのかも、と思い直したのです。専門以外は、どこまで行っても知ったかぶりですものね。ですから、自分にとって価値ある気づきがあったら周囲に話す。そこから議論し、話題を膨らましたら、誤解に気づく可能性が高まる。過ちを指摘してもらえたらラッキー、違う意見の本を紹介してもらえたらラッキー。知ったかぶりして、思いを表明し、必要に応じ、恥かいて、痛い目にあって。これが学びになる。

一人本読んでいてもだめ、かもね。話をするって、価値があるのだろうな。そんなことを思った正月休みです。

今日のベターアイデア:
本読んで、自分にとって価値ある知識・気づきに出会ったら、周囲に「こんな記述があって、なるほどと思ったんだよ。知っていた? XXXらしいよ。」と”知ったかぶり”して話をする。そこから議論したり、派生する疑問を互いにぶつけたり。で、あれ、勝手に誤解してたかも、と気づく。さらに検索したり、関連本を読んでみたり。さらにさらに誤解していたかも、と気づく。恥を忍んでということもありましょうが、”表明する”ってベターアイデアだな、と思ったのでした。

この記事が参加している募集

ビジネス書が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?