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会社に/リーダーに「慈悲」は必要?(ベターアイデア? v3-95)

雨の土曜日。本棚眺めて、ふと思った。会社に、リーダーに「慈悲」って必要なのか。

契約やルールに固執しない、個々の事情を汲んだ優しい人間的な判断。そんな「慈悲」がある判断。これらは会社で組織を率いるときに必要なのかしら、と。小説や映画やドラマでは共感するけど。

というのも「走れメロス」(太宰 治作)をふと本棚から取り出して読んでみたから。最後に読んだのはいつだろ。記憶無し。

で、思う。もしメロスが、暴君の国王と約束した日没までに(日没ってデッドラインも曖昧だけど)戻れなかったら、人質になっていたメロスの親友のセリヌンティウスを国王は処刑していただろうか。ちょっとでも遅れたら無慈悲に即処刑だろうか。そこに「慈悲」はなかっただろうか。約束は約束だ!契約は契約だ!と言い放って処刑したのだろうか。

国王はメロスに言っていた。自分が死ぬのは嫌だろう。親友が代わりに死んだ方が良いだろう。人間なんてまったく信じられないものだ。私利私欲のかたまりだ。でも、自分も努力はしたぜ、って見せつけることは必要だろう。だから、ちょっとだけ遅れて戻ってきたらいいよ。親友は殺すが君は殺さないよ。

この文脈からは、ちょっとでも遅れてきたら親友は処刑されていたでしょうね。「慈悲」はココには無かったのかな。

で、この「慈悲」つながりから、「王子と乞食」(マーク・トウェーン作、村岡花子訳、岩波書店)を次はパラパラ。王子と乞食が入れ替わったことで、社会を、世の中を、民のことを知った王子の「慈悲」深いストーリー。

「エドワード6世は実に短命であった。しかしその短い年月は、まことに生きがいのある生涯で、彼の重臣は一度のみならずいく度も、あまりに寛大な王の性情に反対し、王が修正を加えようとされる法律は、もとのままでも決してひどいものではなく、なにも大した苦痛を人民に感じさせるものではないと論じたことがあったが、その度ごとにわかい国王は、愛情にみちあふれた大きな目に、強いうれいをふくませて、その重臣をみながら答えるのであった。」「そちらが苦痛や迫害についてなにを知ろうぞ?余と余の民は知っている」。締めの言葉です。

王子が乞食と入れ替わり、民を知ったから、世の中を知ったから、現場を知ったから、ストリートを知ったから、そして王子から国王となったからには、「慈悲」深いやさしい国王になりました。

「王子と乞食」の冒頭にはシェークスピアの「ヴェニスの商人」が引用されています。ちょっと脱線するけど、「ヴェニスの商人」も「走れメロス」もプロットが似ているようなようなような。。。

「慈悲の本質には・・・・・二重の恩恵がある。慈悲は、これを与える者も受ける者も幸福にする。最も力ある人にあっては更に最高の徳である。慈悲は君主にとって、その王冠にも幾倍してふさわしいものである。」(ヴェニスの商人)

リーダー(最も力ある人)にあっては、最高の徳である「慈悲」はやはり必要なものか。会社は明確なルールもあるが、それだけでは規定できない日々、流動的な、現場での個別性高い判断・行動・結果がありますものね。

一方で、「慈悲」って、バラつくよ。との注意もある。「個別対応の価値を頭から否定するつもりはない。だがそうした対応が明白な不公平などおぞましい結果を招く可能性を考えると、払うべき代償は高いと言わねばならない。」(「ノイズ」(ダニエル・カーネマン他著、村井章子訳、早川書房))

この「ノイズ」でも、同じくシェークスピアの「ヴェニスの商人」を引用して、「慈悲」は否定しないが、「慈悲」が判断する権威を持つひとの任意で、結果がバラつく弊害・影響受ける人々の多大な不平等が指摘されている。

「王子と乞食」のように道徳的・社会的などの観点から良い方向に導かれる場合は良いが、そうでない場合もある。同じ条件なのに「慈悲」を受ける人と受けない人がいる許容しずらい不公平な現実。入学、採用、昇進、移民受入れ、難民審査、裁判、診断、公共施設の利用などで。不公平が衝撃的なレベル。そもそものルール設定などでケースバイケースの「慈悲」が必要無いよう、バラつかないよう、努力すべきを説いている。

確かにそれもそうだ。会社で慈悲はやっぱりいらないのかな。同じミスであいつは許してあいつはリストラ。なんてありがち。不公平・不平等の温床で、他のメンバーからの信頼がなくなる。依怙贔屓リーダーの烙印か。会社では慈悲は不要か。「見せしめ」のためにも、慈悲無しか。罰則の程度で調整か。むむ、ここにも慈悲が入り得るか。難しい。

でも、ボクはやっぱり「慈悲」がいいかなと思う。自分が「慈悲」が受けられなくて、他のひとは受けられて、不公平に泣くかもしれないけど、それでも別にいいや。「慈悲」を支持したい。だって、猿でも猫でも、誰が判断しても同じ結果になるようなルール作りは会社では不可能だから。だから、慈悲はどうしても入ってしまう。しょうがない。完璧なルールは不可能だから、慈悲を適切に、正しく、平等につかえる利他主義のリーダーがいればいいかな。って、そっちの方が困難かしら。。。

あれ、そしたら、何があってもすべて「慈悲」にしたらいいのだ! 寛容で、おおらかで! 否定的ではなく前向きで! 問題が起きたなら、対象者を罰する心地良さを追求せずに、セリヌンティウスのように仲間を信頼して、ソリューションフォーカスで! 自分がリーダーであればそうあろう。一旦はそんな結論で土曜日が過ぎて行く。

今日のベターアイデア:
会社のリーダーは「慈悲」深くていいかなと。でも、「慈悲」は確かにバラつき不公平の温床ではある。間違えると他の社員から不満が。反乱が起きる。「最も力ある人にあっては更に最高の徳である」そんな「慈悲」を適切に使うには、恣意的・利己的ではダメ。それが会社全体のモチベーションにつながる。そういう方向で使わないと。そのためにも、現場を知らないと。社員を知らないと。人間を知らないと。リーダーもメロスのように約束を守り、エドワードのように利他主義でないと。リモートでどっかにいて、あるいは自分の部屋に閉じこもって、会議だけに顔出して、自分が金持ちになることを目指しているリーダーでは「慈悲」がダメな「慈悲」になりそう。

ちなみに、「王子と乞食」は1877年の作品で、「あらゆる時代の若い人々のための物語」とのサブタイトル。150年ほど経過した今でも色あせない。ボクは残念ながら若者じゃないけど、でも、自分は若者(=まだまだたくさん成長できる)と勝手に思い、「慈悲」ある、現場を知ろうとする、社員を知ろうとする、そして利他主義な、そういうエドワードみたいないリーダーに成長しようと思う。いいアイデアだ。

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